夏飴すくい(ひざしょ既刊)サンプル

hrakマイ相

 

◆秘密のお喋り

 

 

 

抜け殻のように力が入らない。やる気という燃料が回らない頭では教壇に立つ担任の話もひざしの耳を右から左にすり抜けていった。
原因はがらんと空気だけを抱いた、無人の隣の席だ。体育祭振替休日開けの今日、相澤は休んでいた。自分もまだ痛む体を押して来たので不思議ではなかったが、相澤なら登校してくる気がした。そう思って、重い体で家を出たというのに。
事情を知っているだろうと朝一でリカバリーガールの元に向かえば、酷使した目と鼓膜の破れた耳が使えないので相澤が当分登校できないであろうことを告げられた。体の怪我は治せるが目の疲労や内耳の治癒は彼女にはできない。同じように、ひざしも体の怪我は体育祭後に治してもらったが、酷使した喉は自然治癒に任せるしかなかった。

「あんたもそんな状態なんだから大人しくしてなさいよ」
リカバリーガールに厳命を受け、ひざしは黙ったまま渋々と頷く。彼女は薬効をしみこませた大判の白いマスクを耳にかけてくれ、のど飴を握らせてくれた。
(確かに目も耳も使えないんじゃ学校に来てもしょうがないか…)
ひざしは黒板に板書する担任の背中をぼんやり眺めながら、思った。そんな状態では家から出るのもままならないかもしれない。
「……ということで各自に反応があったヒーロー事務所のデータと職場体験の希望用紙をくばる。よく読んで明後日までに提出するように」
名前が呼ばれ、生徒がそれぞれ資料を受け取る。机の上の資料の束が残りわずかになったところで、担任が呟いた。
「と…相澤の分はどうするか」
相澤がいつ回復して登校してくるか分からない現状にその場の皆が気付く。ひざしは考える間もなく手を上げていた。声なく無言でかざされた手のひら。物言わぬ存在感に、皆の視線が集まった。体育祭で激しくぶつかり合った2人の姿は誰の記憶にも新しい。しかし担任は躊躇することなく、むしろお前しかいないという表情で頷いた。

藤色のポストの『彰介・曜子・消太』の文字。
あのときはもう来ることはないと思ったこの家の前に、ひざしは再び佇んでいた。呼び鈴を鳴らせば、静かな家を巡るチャイムの音。少し経ってドアから顔を見せたのは、やはりあの美しい母親だった。しかし今日はひざしの胸をときめかせるような穏やかな微笑みはなく、黒曜石の瞳は少し警戒感を含んでこちらを見た。ひざしの心臓が緊張でドクリと鳴る。
そういえば声がほぼ出ないのだ、とひざしは用件を説明しようとして思い出す。とっさに手に持っていたプリントを指し示した。これを届けに来たのだ、と伝わるように。
「ありがとう」
理解した彼女は口元で微かに笑うと、ひざしからプリントを受け取る。その瞳がちらりと大判のマスクを見た。
「…あなたも喋れないのね」
ひざしは頷き、慌てて鞄からノートを出すと、『消太くんに見舞いさせてくれませんか』と走り書きした。彼女は迷うように相澤そっくりの形の良い眉を寄せたが、結局どうぞと言ってひざしを家に上げた。

相澤には音が聞こえないはずだが、それでもひざしは2階の彼の部屋へ続く階段を静かに上がった。下から少し不安そうに自分を見上げてくる相澤母の視線を感じる。自分は彼女にとって招かれざる客なのだ、という実感。確かに競技とはいえ、激しく争い、相澤を痛めつけたのは自分だった。ひざしの母親は治癒を終えてもなおボロボロで帰ってきたひざしを笑い『がんばったじゃないの、来年リベンジね?』と背を叩いたものだが、すべての親がそう割り切れるわけでもないだろう。

ダークブラウンの木製のドアを開けると、窓から差した日差しがひざしの顎を撫でた。窓際のベッドで横たわり、枕に頭を預けた青年が寝ているのか起きているのか、ひざしには分からなかった。その両眼は後頭部までぐるりと一周する包帯に覆われていた。微動だにしない様子を見ると、寝ているのかもしれない。これは見舞いも諦めるしかないな…ひざしはそう思ったが、何となくそのまま部屋を出る気が起きず、そっと近づいて相澤の枕元に立った。充血し涙の膜を張りながらそれでも自分を睨み付けていたあの鬼気迫る眼差しが、少しだけ恋しかった。ひざしが白い包帯の緩やかな凹凸を見下ろしていると、その下で色のない唇が動いた。

「…山田?」

相澤が枕に預けていた頭を浮かせ、身を起こす。包帯を巻いたその顔は、目が見えないにもかかわらずベッドの隣に佇むひざしに向けられていた。飛び跳ねた鼓動が、そのまま忙しなく鳴り続ける。ひざしは無意識に胸を押さえながら、イエス、と答えられずに戸惑った。自分はまともに声が出せず、相澤の鼓膜は破れている。紙に書いても相澤は読めない。

「あ、お前喋れないのか…」

状況を察した相澤が微かにやさしく笑った、気がした。包帯に覆われて目は見えないが、温かい声色、かすかに端がゆるんだ唇がひざしにそう感じさせた。ひざしは誘われるように、淡い青のブランケットの上に置かれていた相澤の手に触れる。不思議と抵抗感がなく、また抵抗もされなかった。そっと裏返し、手のひらを開かせると、その平らな肌の上に、『なんで分かった?』とゆっくりと一文字ずつ書いた。相澤はしばし解読に時間を要していたが「匂いで分かった」と答えた。匂い?ひざしが尋ねようとすると、相澤がそれを遮って言葉を続ける。
「喉、痛むのか?」
問いかけに、ひざしは指で『大丈夫』と返す。
「怪我は?」
同じように、大丈夫の三文字を綴る。それから、『お前は?』と尋ねた。
「平気だ…リカバリーガールに粗方治してもらったし、お前にやられたくらいじゃ長引かない。目も耳もすぐ治るだろ」
見た目の痛ましさに似合わず酷く落ち着いた声で返され、ひざしは笑った。いつも通りで安心したのだ。ひざしは疑問に思ったことを尋ねてみる。
『俺の匂いってなに?』
整髪料のことだろうか。すると相澤が小首をかしげる。
「よく分からねー…お前の匂いだ」
ひざしはそれを聞いて、そう言えばこの部屋も相澤の匂いでいっぱいだな、と思う。おそらくは相澤が使っているのは匂いのついたボディーソープではなく簡素な石鹸なのだろう。相澤らしいきわめてシンプルな、それでいて胸を落ち着かせる清らかな匂いが、体臭を含んで微かに部屋に満ちていた。闘技場で、飛び散る血と汗の匂いの狭間に嗅いだ覚えのある匂いだった。
『そっか』
ひざしは差し障りのない相槌を綴ってから、指を止めた。話の穂を接ぎたいが、ところでお前の匂い嫌いじゃないよ、なんて返せば変に映るだろう。もう少しここにいたい気がしたが、これ以上この不便なコミュニケーション手段で話すべきことが見当たらなかった。すると消太が口を開く。
「…今日はなんで来てくれたんだ」
ひざしは少しほっとして、プリント届けに来た、と綴る。消太は納得したようだった。一方でひざしは尚更どうしていいか分からない気持ちになる。プリントを届けるミッションをもう完了してしまっている以上、ここに留まる理由がやはり見当たらなかった。沈黙が落ちた部屋は静かで、家の中からも近隣からも一切の物音がしなかった。『じゃあまた』、と綴るべきタイミング。なのに、ひざしは立ち去るのがおしい気がした。ほの温かい手のひらに置いたままの指。相澤もそれをいやとは思わないのか、微動だにしないまま黙っていた。薄い皮膚を通して伝わり合う熱。そのじんわりとした、湿ったぬくもり。
(このまま握ったらどうなる?)
相澤の、無防備に開かれたままの手を握り、そっと指を絡ませたら――。ドン、と跳ねた心臓の音に、ひざしは自分自身驚いて慌てて手を離した。自分が無意識に浮かべた考えの意味が分からず、妙な冷や汗が出る。
(どーしちまったんだよ俺……)
この間の自慰といい、今といい、勝手に思いも寄らぬ動作をする自分の頭を、ひざしはくしゃりと掻いた。
手が離れたことを、相澤は帰るという意思表示だととらえたようだった。

「プリントありがとう」

窓から差し込む昼間の日差しにかき消えてしまいそうなほど微かな、柔らかい笑み。教室では見せない表情を、確かにひざしは感じた。
「また明日な」
相澤の言葉に、見えないと分かっていながらもひざしは頷き、どこか後ろ髪引かれる思いで部屋を出た。階段をそっと下りながら、足がそわりと落ち着かなかった。玄関へ一応お礼を言いに来てくれた相澤母に頭を下げ、ひざしは家を出た。見慣れぬ住宅街を歩いて5分。
(…『また明日』?)
相澤の言葉がよみがえる。あの状態で明日来るつもりなのだろうか?まさか、んなわけない聞き間違えだろう。ひざしは頭に浮かんだ疑問を自分で打ち消し、駅に歩を進めた。

「…なんだありゃ」

休み時間、教室から出た瞬間に奇妙な光景が目に入り、橋本は足を止めた。体育祭開け2日目、皆より1日遅れて登校してきた相澤と、彼と決勝で争った山田が話し込んでいる。問題はその距離だ。相澤の耳に山田が口元を寄せ、本来仲が悪いはずの2人の距離は親密な恋人同士であるかのように近い。山田が相澤に何か必死に言っているが、相澤は首を振り、山田に向かって3万円を押しつけていた。
「……新手の恐喝か?」
とりあえず関わるのはやめよう、と橋本はさっさとその場を立ち去った。

ひざしは困惑していた。相澤が普通に登校してきて授業を受けていることに驚いたが、それ以上に休み時間、教室を出た瞬間に呼び止められ気高き福沢諭吉を3人も押しつけられたことに。
「…ハ?」
あんぐりと口を開けたひざしに、今日は包帯を外している相澤が言った。
「スピーカー代。壊しちまっただろ」
相澤の言葉に、体育祭のラストシーンが蘇る。自分と同等の体格であるはずなのにどこに秘めていたのかゴリラ並のパワーで振り回され、場外に投げ飛ばされた場面。ひざしが地面に落ちたと同時に、派手な音を立てて壊れたスピーカーが浮かぶ。
「いらねぇよこんなの…!」
叫んでしまい、まだ喉が回復していないひざしはゲホゲホとむせた。振り絞った声は掠れていたため、鼓膜のやぶれた相澤の耳もうまく拾えなかったのか、なんだ?と疑問符を返し眉を寄せている。コメディのように難儀な状況だった。ひざしはためらったが、仕方なく相澤の耳元に口を近づけて言った。
「いらねぇよ。俺もお前に怪我させたし、何よりトーナメントだ。何があってもお互い様だろ?」
「確かに怪我はおあいこ。けどあれは現実として修理に金がかかるだろ」
手持ちがこれしかないから足りるか分からないが受け取れ、と相澤はひざしの手に3万円をぐいぐいと押しつけ、今にも立ち去ろうとする。もしかしたら以前話した母子家庭であるということから何か気にしているのかもしれないとひざしは思ったが、いずれにせよ受け取りたくなかった。

「っだ~もう…じゃあさ、もうすぐ中間試験あるから理数教えてよ。それでイーブンだ」
「……。そんなんでいいのか?」
「うん」
「じゃあ今日お前んちに行く」
「えっ今日?」
自分から誘ったものの、唐突な決定に驚く。酷使の跡が残る充血した赤い目で、相澤はこくりと頷いた。

 

 

 

◆未精通青年

 

 

 

麦茶の中で透き通った氷がカランと泳ぐ。

「この問題は…」

相澤の抑揚のない声がガラステーブルに広げたテキストの上に響く。解き方を示すため、ノートには数式が綴られていく。さらさらと流れるような文字。ひざしはその横顔、頻繁にまばたきを繰り返すピンク色の目を眺めていた。体育祭の後遺症が残る瞳は文字を追うことに疲れたのだろう、ペンを置き、ポケットから取り出した目薬を挿す。手慣れた様子で一滴を瞳に落とし、閉じた目尻からあふれた目薬が一筋伝い落ちてから、そっと目を開ける。雫を抱く短い睫毛。潤いの膜をまとい印象を変える瞳。ひざしはもう相澤が点眼する動作の流れひとつひとつを目を閉じても再生できそうなほど覚えてしまっていた。数少ない、相澤消太が無防備でいる一瞬。

「…分かったか?」
潤んだピンク色の目がこちらを向き、ひざしはアアウン、と慌てて頷く。瞳に吸い込まれそうな気がした。
「…これも線形代数の応用?」
「ん?」
「線形代数?これ」
聞き取れず相澤が尋ね返したので、顔を間5センチほどまで近づけてもう一度尋ねる。2人はテーブルを挟んで対面で座らず、相澤の耳が本調子ではないので隣り合って座っていた。同級生の男子二人がスペースの十分ある6畳間で隣り合い、顔を近づけて話す様は端から見ればおかしい光景なのだがここに突っ込む者は誰もいない。相澤は気にするそぶりを見せず、ひざしは何となくそれに甘んじていた。
「そうだな、分かりづらいがそれも…」
相澤がノートの上にまた新たな式を書き起こす。時間を無駄にすることをいやがる普段の態度に反して、教え方は的確で丁寧だった。
「相澤ってさ、やっぱりガキの頃から親父さんに勉強教えてもらったりしてたの?」

ひざしの興味はもはや教科書の上の数式から逸れていた。相澤も、気を散らすな、とは言ったものの気分を害さず結局質問に答えた。
「見てもらったことはあったけど、記憶にあるのは数度くらいか。親父いつも研究で忙しくて昔からそんなに家にいなかったから…まぁ、どのみち教えるのヘタだしな」
「そうなの?」
「難しいこと知ってるからって教えるのうまいかは別だろ。俺以上にコミュニケーションがヘタクソなんだあの人は」
ひざしはそれを聞いて少し笑ってしまう。話が弾むことがなさそうな相澤父子の図も興味深かったが、相澤が自らをコミュニケーション下手だと認識し、素直にそれを話してくれるのが意外だった。口元を緩ませたひざしは頬杖をついてその横顔を斜め下から見上げる。
「お前は別にコミュニケーション下手なわけじゃないと思うぜ?愛想とか、話を面白おかしく盛り上げるような遊びはないけど、こっちが言ったことに真摯に返してくれるし…なんだろ、俺はすげー話しやすい」

フォローのつもりではなく、本心だった。なんか安心すんだよねお前と話してると、とひざしが付け足すと、相澤のピンク色の瞳がゆらりと揺れた。虹彩に煌めいた、何かの感情。なんの感情なのか、ひざしは吸い寄せられるように下からじっと覗き込んだが、俯いた相澤の長い前髪が視線を遮断した。
「…お前んちは賑やかそうだな」
「あーーー、うるさいようちは…母ちゃんも姉ちゃんもよく喋るからさー。だから俺家にいるときの方があんまり喋らねーの。意外だろ」
「信じがたい」
相澤の言葉にひざしはへへと笑う。話はそこから女系家族における唯一男子の苦労に転じた。
「…で、下着もその辺に転がしとくからさ~結局俺が拾って洗濯すんだけど…姉ちゃん俺を奴隷だと思ってんだよったく」
「すげぇな…うちは母親の下着なんか俺が記憶にある限り見たことない」
「マジ!?それはそれでちょっと気持ち悪いけど…」
「ほっとけ」

色白で黒曜石のような瞳が美しい相澤母の顔がひざしの頭に浮かんだ。女性らしい彼女ならば確かにそうなのかもしれない、と妙に納得する。
「…あ!!」
唐突に大声を上げたひざしに相澤が目を猫のように大きくする。
「なんだ?」
「あ~~~~…あのさ、お前に渡そうと思ってたものがあるんだ」
もう声を上げてしまった手前、引き下がるのも不自然だ。ひざしはこの機会に、相澤が以前電車の中で落とした下着を返してやろうと勉強机の引き出しを開けた。
「…これ」
黒い包みにつつまれたそれを差し出され相澤は不思議そうな顔をしたが、中を開き、十分すぎる間を置いてからカッと頬を染めた。
「なんでお前が持ってんだよ…」
「お前が電車の中で落としたの。俺がはじめてお前んち行った日覚えてる?本当は俺、これ拾ったから届けに行ったんだよ。…結局渡すの忘れて帰って来ちゃったけど」

無言で手元を凝視する相澤の頭が、何かめまぐるしく動いている気配がした。自分の下着を持ったまま固まるそのただならぬ様子に、ひざしは横からそっと尋ねる。
「なんでパンツなんか持ち歩いてんの?」
お前そんな汗かくほうでもねーだろ、と顔を近づけて付け足せば、相澤は堅い表情で重たい口を開いた。
「…汚れた時用だ」
「ウンコ?」
「ちがう」
その嫌疑はさすがに相澤といえどイヤらしい。瞬時に否定の言葉を返した唇は逡巡するように微かに開閉を繰り返したが、パンツの恩人ともいえるひざしにじっと見つめ続けられる沈黙に耐えかね、とうとう白旗を揚げた。
「……精通した時に、汚れるって聞いたから」
ぼそりと早口で言ってそむけた顔。ひざしは我が耳を疑った。
「せいつう?せいつうって、あの?」
「…そうだ。悪いか」
目をそらし、染まった頬を隠すように相澤は手で口元を覆う。それから落ち着きなくコップを掴み、麦茶をぐびりと飲んだ。精通したときに汚れる、というのは不意に精通したときに精液がたくさん出て下着が汚れるかもしれないから、という意味だろう。どこから聞きかじった知識なのか知らないが、それを信じて怖々と備えているらしい。大人びたように見える相澤の意外な秘密にひざしの胸が好奇に踊った。
「なんだ、まあ、分かるぜ。俺も遅かったから」
「…そうなのか」
「おう。たぶんさ、触り方が悪いんじゃねーの」
つい先日、しかもお前で精通した、という事実を隠し、ひざしは物知り顔で答えた。不思議と口からするする言葉が出て、正しい触り方でしばらくオナニーしてればちゃんと精通するよ、なんて根拠のないことまで言ってしまう。
「だから俺がやってやるよ」
「は?…いい」
相澤はさすがに警戒心を取り戻したように、即座に拒絶した。
「一人じゃ正しいやり方わかんなくない?別に誰にも言わねーし…」
「汚ねーだろ」
「ンなの気にしないって全然。手洗えばいいし!」

なぜ相澤にそこまでしてやろうとしているのかひざしは自分でも分からない。気付けば、やり方間違ってるとやばいぜ、精通一生こなくなるかも、などと適当なことまでまくしたてていた。目の前の青年は性的なことにうといのか案外に純朴で、しばらく唇をへの字に押し曲げ黙ってから、…じゃあ頼む、と小さく呟いた。目を合わせるのは恥ずかしいのか、テーブルの端に反らしながら。
「……っ…」
制服のズボンをくつろげ、ひざしが予想に違わぬ黒っぽいボクサーパンツをめくると皮に包まれた丸っ短くこいペニスがぽろんとこぼれた。相澤が固い表情で見守る中、ひざしは人差し指と親指でその先端をそっと握り、亀頭を隠していた包皮を下に押し下げる。露わになった相澤の雄は肌の色に見合って色が薄く、初々しく見えた。空気に触れたばかりの、また湿度を持ったままのやわらかな亀頭は過敏で、指先で撫でれば相澤の肩がびくりと跳ねた。
「な、…に、いてぇ、…」
「…あんまり剝いたことねぇの?」
相澤が唇をぐうと引き結んで無言で頷く。ひざしは驚いた。同世代の友人たちは包茎を脱すべく剥き癖をつけようと必死なのに。ひざしも例に漏れず目指すところはズルムケである。精通がまだだったというだけで中学から自慰もしていた。
「大丈夫、痛くてもそのうち慣れてくるから…任せて」
声に穏やかさを含ませてささやいて、剥き出しの亀頭をゆっくりと上下に扱く。相澤は慣れない感覚に耐えているのか、表情を固くして眉を寄せていた。
「なんかオカズねーの?」
「っオカズ?」
「エロ本とか、興奮できるもの」
「ない」
こいつ本当に青少年か?とひざしは思いはしたが、相澤らしいと納得して諦める。
「んじゃ、目ェ閉じて…好きなグラビアアイドルとか女優でも思い浮かべて」
「………」
困惑した眼差しに、恐らくそういうものも特にいないのだろうのひざしは悟る。しかし相澤は言葉通り目を閉じ、ひざしの手におとなしく自身をゆだねていた。普段包皮につつまれ、ろくに触られることがない性器の感度は強く、如実に硬さを増す。先端の小さな穴からじわりと透明なしずくがにじんだ。

「っ、…、…やまだ、……なんか、…っ」
「ん、大丈夫だから」
「っ耳元で喋んな」
「はあ?今更何言ってんだよ」
先端のまるみを我慢汁がひとしずく伝った瞬間、相澤の肩が跳ね、背がぎゅうと丸まる。その勢いでガツンとテーブルの縁に頭をぶつけたので、ひざしは目を丸くする。
「おい、ちょっと、大丈夫かよ!?」
ひざしが少し萎えた性器から手を離し、顔をテーブルに突っ伏したままの相澤を覗き込むと、耳が赤い。黒い髪のかかる首筋まで染まっていた。シャツの襟から伸びるその肌色の変化にひざしが目を奪われていると、相澤がのそりと顔を上げる。顔は手で覆っていたが、ひざしを指の間から見やった瞳は少し潤んでいた。
「…今の何だ?」
「今の?精液出ないけどイったんだろ。精通はしてなさそうだけど…え、イッたの初めて?」
「…早よ手洗ってこい!」
「ワ、待って」

ひざしはベッドサイドのティッシュを引き抜き、自分の手と、相澤の濡れたペニスの先をぬぐってやる。手を洗って戻ってくると、身なりを整えた相澤はもう平然とした顔をしていた。まるで何事もなかったかのように。切り替えの早さにひざしは目を丸くする。

「今日の授業、先生の話がよく聞き取れなかったからいくつか聞きたいところがある」
そう言って相澤は自分の鞄の中から教科書を取り出して開いた。ひざしの提案にすぐ乗ったのは自分も聞きたいことがあったからだったのだ。普段と変わらないページをめくる手つき、文字の上を滑る視線。ひざしは少しつまらない気分になって隣に座ったが、授業の中身を説明し初めて考えが変わる。よく聞こえるようにと唇を近づけると、ふいと離れる耳。教科書の文字を見るふりをして、時折テーブルの上を回遊する視線。いつも通りの相澤、というわけではなかった。

『今日もうちで勉強会しない?』

という翌日の学校での誘いに、相澤は一瞬黙ったが、結局頷いた。昨日に続き授業で聞きたいことがあるのだろう。充血した目に今日はまぶたが重たげに落ち、ひどく眠たそうだった。ひざしは承諾を得たことに内心ガッツポーズをする。目的はもはや数学の難問の解き方を知ることではなかった。

昨日の続きで数学の問題を幾つかと、今日の授業内容のリピート。互いのノートが数ページ進み、ペンを置いた時点。
「な…触ってもいい?」
そう言いながら、ひざしの手はもう相澤の制服のズボンに触れていた。問いかけに固まった横顔で、小さな黒目はちらちらと動揺と、それ以外の何かを映して光っていた。
「なんで」
何となく、触りたいから、と答えかけて、ひざしは寸でで言葉を飲む。同性の同級生に言うにはあまりに不自然な言葉だ。

「人に触られた方が気持ちいいだろ?」
だから早く精通もするでしょ、という意味を暗に含ませると、うつむいて黙っていた相澤は、変な奴、とだけ呟いて、ベルトを外し始めた。自分のものではないかのようにその手つきはのろのろと遅く、たどたどしい。相澤には珍しく、まだ何か迷っているようだった。ひざしは手を出してすぐにチャックまで下ろしてやりたい衝動にかられたが、本能が『今は性急に手を出すな』と告げていた。獲物を前にして用心深く草むらに身を隠す獣のような心境だった。
「…っ、」
ひざしが性器に触れた瞬間、見えないと思ったのか相澤は遠い方の手で自分のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。ひざしはゆっくりと皮を下ろし、剥き出しの色づいた亀頭を扱く。今日は昨日よりも硬く張り詰めるのが遅い気がした。
「…相澤、昨日帰ってからオナニーしたの?」
図星だったのか、相澤の髪が微かに揺れる。ひざしの耳は跳ねた鼓動の音も拾った。しかし言葉は、してない、と返ってくる。ひざしはほくそ笑むと、それ以上追及するのはやめて手の動きに集中した。

「…気持ちいい?」
耳元でささやいて尋ねれば、相澤が微かに震えたのが分かった。耳が逃げるように離れるのを追いかけてもう一度。
「やっぱり痛い?」
手の中の熱の先端からは透明な我慢汁が溢れてきていた。くちゅくちゅといやらしい音が静かな室内に満ちる。相澤はひざしに顔を見せたくないのか反対側を向いていたが、答えないと質問が終わらないと悟ったのか、気持ちいい、とぼそりと呟いた。
「これは?」
しずくを溜めた尿道口を指の腹でくりくりといじりまわせば、相澤の背がすぐ後ろにあるベッドに向かって反った。慌てて口元を抑えた手は、ぁ、と小さく漏れた声を隠すためだ。指の腹でカリの周りも虐めてやれば、経験の浅い体は如実に反応を返した。ひざしは緑の目を細めてその鑑賞に浸っていた。動き続ける手の中で相澤の分身が従順に熱と硬さを増していく。
「もイきそう?」
尋ねれば相澤がこくと頷いたので、ひざしは空いている手で箱からティッシュ2枚を抜き取りその先端に当てた。

「っ……ふ……!」
未成熟なペニスがぴくりと震え、透明な蜜を垂らす。また射精には至らなかった。ひざしがティッシュで手を拭いている横で、相澤は顔を背けたまま後ろのベッドに頬を落としていた。は、は、と手の中で小さく息をつくのが聞こえた。その赤く染まった耳から首筋にひざしの目は再び奪われる。普段隠れて見えないうなじが、散った髪の間から無防備に覗いていた。まるで相澤自身のように無垢な、白さ。
ちゅ、と唇が肌に落ちる音。
突然うなじに落とされたキスに、背を向けて脱力していた相澤が飛び起きた。大きく見開いたピンク色の潤んだ瞳に映され、ひざしはようやく自分の行為を自覚する。同性の同級生に、キスを、してしまった―。たとえば地球の重力に人間が従うように、気付けば顔が相澤のうなじに自然と吸い寄せられていた。なんの考えもなく。
「っ…なんだよ…なんで…」
達したばかりだからではなく、ひざしの耳に聞こえる相澤の心音は密かに乱れていた。先ほど相澤の性器に触ろうとした時に投げかけられたのと同様の問い。自分自身の行動にためらいながらひざしは頭を巡らせるが、説明できるような何かがあるわけではない。ただ、触りたかったから。それだけの本能的な欲求だ。

「…分かんない」

結局同級生の、友達になったばかりの男に言えるのはやはりこれくらいしかなかった。

 

 

 

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