ゆびわと時の散る波間(マイ相)

hrakマイ相

※マがSッ気、あぶないひと 別れたマイ相

 

 

 

別れ際の女の膣は弛緩し、ひどく生ぬるいものだ。生気の感じられない虚しい穴は、薄いゴムを一枚隔てたところで心の細胞を侵食し、死滅させる。マイクは経験則からそれを学んでいた。

「さぶっ…」
冬の午前の冷たい風が垂らした金髪を打ち付け、マイクは眉間を寄せた。
今日が過ぎればすぐ忘れてしまいそうな特徴のないホテルから一人で出たものの、足がないことを思い出す。昨日のスポーツ紙の報道から羽虫のように増えた記者たちのせいで、愛車は自宅に置いて来ざるを得なかった。短気が、頭をもたげる。
(高速ぶっ飛ばせたら多少は気も晴れんのに…)
車高が低い愛車の、固いハンドルの感触を求め手が虚しく乾く。
仕方なく歩き出した足は大通りへ向かう。人目を避けるために奥まった地味なホテルを選んだことが災いした。一刻も早くこの場を去りたい、そう思っても叶わない現状に苛立ったが、半狂乱な女を前にタクシーの確保に気を回す余裕はなかった。
大通りに出たところできっとすぐ捕まらないだろう…都心を走るタクシーの多さとは別に、今日のマイクは感情的にそう思った。自分の犯した大きな『失敗』に、自分が思う以上にヤケになっていた。
(どん底をジョークにすんのが普段のオレなわけだけど…)

「プレゼント・マイク!」

予期せず発せられた自分の名前に心臓を打たれる。
マイクが振り返るとパシャリと乾いたシャッター音がなった。サングラスで目を覆うヒーローコスチュームとは違い、透明な眼鏡のレンズの下に素顔をさらしたマイクの驚きの表情が、一眼レフの中に吸い込まれていく。

「日刊芸能です。彼女とはホテルでどんなやりとりをされたんですか?」
「…いきなり人を無断で撮っといて質問ぶつけるとはいーい度胸だな」

マイクのこめかみに静かに青筋が立つ。無断で、という概念が恐らく彼らにはないであろうことを、この数日身をもって体感してはいた。
ぼさついた短髪の、黒い薄汚れたダウンジャケットを纏った男は質問をしながら、銃口を向けるようにカメラのレンズを下ろさない。機体を固定する右手には器用にもICレコーダーが握られ、やはりナイフのようにこちらを向いている。

「テメェらに追い掛け回されてそろそろ我慢の限界なの。痛い目みたくなかったら早くおうちに帰って愛しいオナホと遊んでろよ」
「あなたが入った後時間差で彼女がホテルに入っていくのを撮りました。別れ話は済んだということなんですか?」
「…なんて答えりゃ満足なの?」

マイクは尋ねながら、もはや男のいびつな顔面は見ずに、人差し指と中指にはまったシルバーの指輪に目を落とす。そのずれを直せば、鋭い目をした中指の髑髏が陽射しを浴びて笑っていた。

「彼女はあなたとの関係悪化が原因で精神科に通院したそうですが、事実関係は?今日破局した、ということでいいんですか?別れ話はマイクさんからですか?その理由は?」
矢継ぎ早の質問に、マイクは深呼吸した。自分を落ち着けるためではなく。
「オーーーーケェーーーリスナー…質問を沢山ありがとう。オレは短気なんで手短に答えさせてくれ」

指にはまった銀色の光が流線を描き、男の鼻に埋まった。
今に至るまでのここ数日の怒りと、自己嫌悪によるヤケが拳の硬度を増した。衝撃でのけぞる男の、顎に散らばるひげが目に入る。
(無精ひげならもっと可愛い生やし方あんだろうにな~。…まぁ素材の問題か)
男の体が地面に跳ね、一眼レフが硬質な叫びをあげるのを待たず、マイクの足は目的地に踏み出していた。昔愛した、可愛い無精ひげの男の元へ。

 

 

◇ ◇

人の不幸は密の味、とはよく言ったものだ。
人間の本性を恥ずかしげもなく垂れ流す公共放送を前に、消太は起き抜けの重いまぶたをこする。
テレビ画面に映るワイドショーの司会の男は『いやあ~これはどうなんですかねえ』とスポーツ紙に踊った見出しを前にニヤつく。ねっとりとした口調が耳に障り、

(どうなんですかね、って何だ)
消太は一人内心で突っ込む。
学歴と美貌が売りの女性タレントが『今まで数々のモデルとスピード破局を繰り返してきたプレゼント・マイクさんですけど、今回こそは、と言われていましたものね。本当なら残念ですが…』と出過ぎない行儀のいいコメントを返した。
(思ってもいねぇだろ)
こんな下世話な番組に出ておいてなぜ自分のイメージを守ろうとするのか。テレビ業界の事情は知らないし、興味もないが、消太にとっては不可解なことが多すぎた。
『プレゼント・マイクとモデルS破局 婚約間近の蜜月から暗転』
自分と昔恋仲にあった男が、画面上で話題に不釣合いな笑顔を見せている。
(何やってんだお前…)
昨日どこかのスポーツ紙が報じてから、他にニュースがなかったためか今日もワイドショーで延々と繰り返されるこのゴシップ。消太にはこの真偽も、こんな報道が出た経緯もまったく分からなかった。
高校から始まったマイクと消太の付き合いは長く、職場でも日常的によく会話をする。しかし生徒や授業の話、気軽な冗談が主で、お互いのプライベートのことはほとんど話さない。
過去に恋人という関係を持っていた者同士の、気兼ねと分別だった。十年も前に終わらせた関係を今更思い出すこともないが、それでも互いの色恋については特に踏み込むことを避けていた。
司会の男はフリップで『芸能関係者』という得体の知れない人物の、『秋ごろから口論が増え関係が悪化していたと聞いた。彼女はプレゼント・マイクの浮気に悩んでいたらしい』とのコメントを紹介し、まとまりのない雑談をして次のニュースに移った。
消太はチャンネルを変えようとした指をリモコンのボタンの上でさ迷わせ、結局電源をぶつりと切る。

「くだらねえ…」
収入にしては手狭な1DKに、吐き捨てた呟きが響いた。
二十歳になった日、マイクに自分から別れを切り出した、喉の奥が詰まるような苦しさがふと蘇る。ゴシップよりも自分の感傷が下らなく感じて仕方なかった。
ふいに乾いた目に痒みを感じ、消太は手の甲であらっぽく瞼をこする。昨晩仕事帰りに切らしてしまった目薬を買うつもりだったが、忘れて帰ってきたのを思い出して小さく舌打ちする。
消太の赤く苛んだ目はテーブルの上のマグカップを捉えた。昨日コーヒーを飲んだまま放っておいたそれを手に重い腰を持ち上げると、入居以来真新しいままのキッチンでざっと洗った。
食器洗剤とスポンジ、塩。戸棚を開ければ買いだめしたインスタントコーヒーの大袋が突っ込まれている、ただそれだけの非人間的なキッチンが、消太にとっては心地がいい。物が増えればそれだけ雑念が生まれるからだ。
マグカップにインスタントコーヒーのパックをいつものように入れかけて、手が止まる。濃いカフェインは腹の中の妙なむかつきを悪化させてしまいそうだった。
消太は首をひねり、リビングの端に置いたままだった日本酒の瓶を視認する。隣のクラスの担任を務める大男が『酒好きだろ?実家から送ってきた』と先週くれたものだ。
(アイツつまらんことで突っかかってくる割に意外と気が利くんだよな…)
性根がよいのは東北人の気質かもしれない。消太は適当にそう結論付けると、マグカップと酒瓶を手にちゃぶ台の前に座りなおす。午前から酒盛りをする趣味はなかったが、久々の非番に朝から下らないゴシップを見てしまった気分を変えたかった。

コップの中の澄んだ液体に、髪がまばらに跳ね、無精ひげの伸びた自分の顔が映る。
女性から言い寄られることもあるので見目が悪いわけではないらしいが、消太自身は自らを整った顔立ちだとは思っていなかった。モデルばかりと浮名を流すマイクが、なぜ自分と付き合っていたのか。今の消太にはよく分からなかった。
(はよ結婚しろよアホ…)
消太は眉を寄せるとマグカップの酒をぐいと煽る。脳裏に、職員室の机でパソコンを前に座る、マイクの横顔が浮かんだ。傍目にはいつも通りに騒ぎながらも、最近サングラスの下の目がどこか侘しげに沈んでいることに消太は気づいていた。口にすることはしなかったが。
真偽の分からないゴシップに影響を受けている自分の思考に気づき、消太は舌打ちをする。
と同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。
消太は覗き穴に映った男に目を見開いた。淡いネイビーのチェスターコートに透けるような金髪を垂らした長身。以前教員飲みの二次会会場として(強制的に)選ばれたこの家の場所を覚えていたのだろう。消太は逡巡したが、もう一度鳴らされたチャイムに仕方なしにドアを開けた。迎え入れるつもりはさしてないことを示すように、自分の半身だけが出る程度に。
「……非番に何の用だマイク」
「非番だからよ。たまには飲もうぜ」
ニィ!と屈託のないスマイルと、掲げられたコンビニのビニール袋。
消太は険しい顔で、しかし眩しげに目を細めた。学校でのヒーローコスチュームは見慣れているが、プライベートのマイクは久しく見ていない。消太と付き合っていた頃のマイクはカジュアルな服が多かった。縦長に落ちるラインが美しいコートに、グレーのタートルネックを黒い細身のパンツで締めた男は、メディアを賑わすにふさわしい、華やかな世界の人間だった。消太にとっては認めがたいが。
「ちょ、オイオイ閉めないで!」
「お前が来るようなとこじゃねーぞ。麻布か目黒で飲んでろ」
「イレイザーと飲みに来たんだって~~~~!!待ってまだ閉めようとするゥ!?オレの足挟まってんのに!?」
それなりに値打ちのありそうなマイクの革靴がドアとドア枠の間で無残にひしゃげる。もちろんマイクのつま先も。痛い痛いと廊下に響き渡る音量で叫ぶ騒音男に、消太は折れざるを得なかった。

「お、飲んでたの?丁度イイ」
ちゃぶ台の上のマグカップと横に置かれた酒瓶をみて、マイクは機嫌がよさそうに声をあげる。自らが手に持っていた酒とツマミ類の入ったコンビニの袋を、その横に置いた。
「朝からテレビでお前の顔を見てうんざりしてたところだ」
「あースポーツ紙の話?ありゃ誤報だよ」
マイクはそう言いながら四角いちゃぶ台をはさんで消太の向かいに腰掛ける。
「出た時点じゃな。けどさっき別れちまったからまあ結果真実ってトコ」
「…高嶺の花を逃したか。残念だったな」
消太は少し面食らいながら返す。お互い恋愛話は避けてきたつもりだったので、マイクが自ら語るのが意外だった。
「『高嶺の花』なぁ。実際には毒花って感じだぜ。四六時中俺の浮気を疑ってヒステリックになるし、なかなかシビれる性格」
――まあ、そんな彼女の地雷踏んでフラれちまったわけだけど。
そう言ったマイクのあけすけな饒舌さに消太は眉をひそめる。特に聞きたくもない情報だった。しかし失恋したヤケもあるのだろうと思い、黙ってマグカップに酒を注ぐ。
「イレイザーは?」
「何がだ」
「カノジョ」

顔もおぼろげなほど輪郭の薄れた女が一瞬だけ浮かび、消えた。
「…もうしばらくいない。大分前に別れた」
「ふーん、何で?」
「忙しくて連絡無視してたら終わってた。そりゃそうだろうな」
お前らしいな、とマイクがくっくと笑う。
当時を振り返れば彼女と一緒に過ごした記憶もほとんどなく、面倒だ、という感想以外思い出されることはほぼない。しかしこんな自分と付き合った彼女を気の毒に思っていたし、反省もしていた。
「男は?」
「ああ?」
「男とは付き合ってねぇの?」
消太の三白眼が怪訝に鋭くなっても目の前の男は動じない。安々と、踏み越えられる不文律。なぜこの男が今更こんなことを聞いてくるのか、消太は疑問ではなく不快に思った。
「お前には関係ねぇだろ、そんなこと」
「シヴィ~…ソッチは教えてくれねぇんだ」
軽い調子で言うマイクに消太は声を低く落とす。
「いきなり訪ねてきたと思ったら恋愛話か?いまさら三十路のオッサン同士ですることでもねぇだろう。帰れ」
「ワオ傷心の俺に辛辣ゥ…」
「さっさと次の相手見つけろ。ノロケ話なら聞いてやる」
はよしろ、と消太の眼力に押され、マイクが渋々と立ち上がる。不満を垂れ流しながら廊下を歩く背中を監視するように、消太も後に続いた。空気に乗ってふわと華やかな匂いが鼻につく。先ほど別れてきたという女のものだろう。玄関前で、マイクがくるりと振り返った。
「…もう一回やり直さねぇ?って言ったら?」
鼻先で蔓延する不快な匂いに気をとられていた消太は、は?、と間の抜けた声をあげた。
「オレと消太」
十年ぶりに聞く、マイクの声での自分の名。やり直さないか、オレと消太…言葉の意味が分からず、というより脳が理解を拒否し、消太が一瞬時を止めると、癖のある黒髪に手が伸びた。
「よせ、」
乾いた音と共に消太が一歩後ろに下がる。
「フラれたヤケか。つまんねぇ冗談はやめろ、断固断る」
「ハハ…だろうな、そう言うと思ったぜ」
弾かれた手を見つめ、整った相貌が笑った。消太の目は、その乾いた表情よりもマイクが指に嵌めたシルバーリングに吸い寄せられる。人差し指をシンプルに、中指を豪奢に飾った光沢に、奇妙な赤い色がこびり付いてた。
「…なんだそれは」
「ん?アー…俺を追いかけてきた記者の血」
言いながら、マイクがうとましそうに指を振る。
「…何した?」
「…色々聞いてきてうっとおしかったから殴った。足は出してない、死んじまうからな」
どうでも良さそうな口調に、消太の顔が険しくなる。
「傷害罪だ。即警察いけ。ダチだろうがなんだろうが犯罪者を見逃すつもりはねぇぞ」
「オーゥ流石ヒーロー様…」
「茶化すな。傷害罪の初犯なら不起訴になる可能性は高い、刑事的にはな。だがヒーローかつ教師として一般人殴っちまった罪は重い。過去の事例を考えるとヒーロー資格剥奪まではいかねぇにしろ学校じゃ当面の謹慎は確実だろう」
消太はそこまで一思いに言ってから付け加える。マイクが短気だが愚かではないことも、よく分かっていた。
「俺に言われるまでもなく分かってんだろ?早く行け。お前なりの主張があるんならそこでしろ。行かねぇんなら俺が突き出す」
旧友であり元恋人でもある男のまっすぐな言葉に、ふっと笑ったグリーンの瞳は、どこか空虚だった。
「…何考えてる」
「ん、消太のこと。…いつでも正しいなって」
マイクの手が消太の細く整った顎に伸び、親指の腹で無精ひげをなぞる。女物の香水と、マイクが普段つけている香水の混ざった匂いが、再び不快に鼻を撫でた。
「…現実逃避か?やめろ、しょうもねえ」
「逃避じゃない」
「慰めがほしいんなら風俗いけ、刑事手続きが全部済んだ後にな。お前の感傷に俺を巻き込むな」
「もう女の膣にはウンザリしてんだよ。女の柔らかい胸よりお前の固い胸がイイ…消太の中に入れさせて」
「ふ、」
罵倒が吐息とともにマイクの唇に飲み込まれる。舌先が歯列を割って入り込み、消太の舌裏からなであげた。瞬間、マイクの肩が揺れ、眉をひそめた顔が消太から離れる。べろりと出された長い舌には血がにじんでいた。
「アー…俺の商売道具が」
「っ…どのみちしばらく番組できねえだろ、いいザマだ」
言い終えた刹那、マイクの親指が消太の口をこじ開け、傷ついた舌が再び消太の舌をさらう。自らの親指を噛み砕こうとする獰猛な歯は意に介さず、マイクの舌は奥へ逃げる消太を捉えからみついた。
「っふ、……ン、」
消太は首を振るがにげられず、舌の交わりは一層深くなる。互いのあつい鼻息が、密着した皮膚上でぶつかり、顔の温度を上げた。消太の唇の端があふれた唾液で光り、静かに冷えた廊下に湿った音だけが響く。長い舌がぬるりと引けば、白い凶器に食まれていない方の手が黒髪をかきあげた。
「消太、好き、」
重たい吐息のようなささやきが、消太の首筋をぞくりと震わせた。
「っ、やめろ」
耳に吹き込まれたマイクの声は口付けの余韻で熱く湿っていた。困惑した消太の頭を、耳に差し込まれた舌がさらに乱す。とっさに目の前にある急所、彼の武器である喉を掴もうとすると、マイクの右手がそれを阻み、まがまがしい力が込められた指を握りこんだ。
「迷わず喉を狙ってくるとこが流石、お前らしいぜ」
「ぐっ…」
「ショータ、悪いけど今日は我慢がきかねー…大人しくしててくれっか?それとも耳元で直接俺のイイ声最大音量で聞きたい?」
その言葉にざわりと消太の髪が逆立ちかけたが、マイクの片手が煌いた双眸をおおった。お互いの個性は、弱点も、発動するタイミングも、他の誰より分かっていた。
遠距離型と思われているマイクの個性は、至近距離で発動すれば鼓膜どころか脳を破壊し一瞬で人を殺せる力がある。ヒーローという職業上使うことはないが、遠くから多くの敵の鼓膜を揺るがしひるませるのはマイクにとって戯れに過ぎないことを消太は知っていた。
仮に今ここで消太が個性を発動できても時間には限度がある。マイクがもし本気なら、消太が全力で抵抗してもいずれ至近距離でヴォイスを叩き込めるだろう。どのみちこの貸家の壁が瓦解するのは確実だった。
「…傷害の上に脅迫、強姦とは立派じゃねぇか、ボイスヒーロー」
「強姦?」
ふっと笑った吐息が耳をなぶった。消太の手を握りこんだマイクの手が、黒いスウェットのゆるくなった腰ゴムをくぐって突き入れられる。強引に導かれ、意図せず消太の指先が触れたのは、ボクサーパンツの布地を押し上げる自らの性器だった。
「っ、」
「『強姦」されんのにコレか?」
消太の首元から顔の下までが燃えるように熱くなる。マイクの指は布の上から性器をするりと撫で、消太はその手首を捕まえて引き剥がそうとしたが、敏感な耳に舌が這った。
「ひっ、ぁ、く」

薄い耳の上端を食まれ、耳の裏の隆起を長い舌がぞろりとなぞった。消太が肩を揺らす隙にマイクの手は下着の中に入り込み、性器を直に握る。
「相変わらず耳がよえーのな…」
小さな耳の穴から舌を引き抜いたマイクが吐息をかけると、広がる熱風が濡れた皮膚をぞわぞわと這った。マイクは硬直する消太の体を引き寄せ、自分に背を向けさせる格好でドアに押し付ける。同時に反撃しようと浮いた利き腕を捻り上げた。
「時間の無駄はやめようぜ。どうすりゃ合理的か分かるだろ?」
消太はかみ合わせた奥歯を軋ませる。マイクの言うとおりされるがままに欲求を受け入れれば事は早く片付くが、昔の関係を今さら乱暴に掘り返される行為には嫌気がしていた。逡巡の末、消太は眉を寄せ目を閉じる。
マイクがコートのポケットを探り、透明なビニール包みに入った使いきりのローションを出す。
同時に、ポケットから四角い小さな箱が消太の足元に落ちた。”HW”と、何かのブランド名であろう白の刻印が濃紺の箱に刻まれている。消太はその意味を知らないが、箱の品のいい高級感のある造り、サイズから中身を察した。
「…フン、受け取ってもらえなかったのか。指輪」
「まーなー…この状況で失敗したプロポーズの話聞く?」
コンドーム大のビニールを歯で千切りながらマイクが言葉少なに答える。

「ざまあねえな」
憎まれ口を叩きながら、それが誰に向けた言葉なのか消太自身よく分からなかった。プロポーズに失敗した男より、その男に失恋のはけ口にされている自分のほうがよほど惨めに思えたからだ。
綺麗なままの箱の隣に、中身のなくなったビニールがはらりと落ちる。
「…ま、今は無粋な話はやめようぜ」
粘液をまとったマイクの指がひやりと触れ、消太の体内に入り込む。迷いなく進む指はすぐに前立腺に触れ、小さなふくらみをなで上げる。ひくりとふるえる身体は学生時代から馴染んだ指の感触を、覚えていた。
「チッ……っ、…」
憎らしいほど巧みな指に弱いところをやわらかく揉まれ、その腹で押しつぶされれば、勃起した性器が疼いた。
「ん、ナカ熱ぃ…吸い付いてくるし…エロ…」
「っ…バカな実況してんじゃ、ね……ヤるならとっとと突っ込めよ……ハ、…」
マイクの指が2本に増え、前立腺を擦り上げながら抜き差しを繰り返し、押し広げる。長い指に性感を引き摺られる感覚に消太が俯いて耐えていると、黒髪から覗いた白いうなじに唇が吸い付く。
十五の時より首は太く男らしくなったが、日に焼けない消太の肌は病的にあお白いままだった。マイクの舌がすべり、背につながる骨の隆起にそっと歯を立てる。
唇をかみ締めた消太は微動だにしないが、素直に反応を返す肉の輪は侵入する指を締め上げていた。抵抗のなさにマイクは消太の利き腕を抑えていた手を離し、スウェットの中で息づく胸の突起に指をはわせる。
「や、めろ、ゴチャゴチャ触んな…さっさと挿れろ、バカ」
「久しぶりだし消太の弱いところ確かめたいじゃん」
「ンッ!くっ、…ぅ、」
きゅうと小さな先を摘まれ、消太が体を跳ねさせる。
「最初は感じなかったけど頑張って開発したんだよな~…感度変わってねーな、よしよし」
「ぁ、くっ、…ふざけ、ん……っ」
指先で色付きの薄い輪を撫でられ、ぷくりと立ち上がった突起を爪で苛められる。同時に体内に埋めこまれた指が、過敏な粘膜を擦り、ひっかく。しつこく意地のわるい愛撫に耐えられず、消太は鉄製のドアにすがらせた手を握りしめた。うつむいたまま頭頂部を擦り付ければ、乱れた髪が一層乱れるだけで、外気に冷えた金属は発熱する頭の芯を冷ましてはくれない。
ぬるり、とマイクの指が抜かれる。静けさの中で、ジッパーの下がる音と、ドクドクと大きくなる自らの鼓動が消太の鼓膜をゆらした。認めたくはないが、マイクの指が抜けたそこはじとじとと疼いていた。
「震えてる、消太…欲しかった?」
熱く硬い幹が、じらすように尻の割れ目に乗る。確かな質量と、張り詰めた弾力。何度銜えこんだかわからないその形がリアルに想起され、消太はたまらず目を瞑った。漏れる息が知れず、早く、浅くなる。
マイクの手が引き締まった双丘を掴み、親指が濡れそぼったうす赤い入り口を開く。外気に触れたからではない粘膜のヒクつきに、マイクが声を立てず笑う気配がした。待ち望んだそこに、カリが高く美しく反った亀頭の先が、ぷちゅ、と押し付けられる。
「はッ…~~~っ、ぁ、ァ、…!」
太い肉の包皮が入り込み、一気に突き入る。前立腺の奥を穿った硬い熱に、消太はあっけなく達していた。脳が理解するよりも早く、尿道の先から精液が跳ね、ドアを汚した。
「はぁ、…スゲェ締め付け…挿れただけでイッたのかよ…」
「ぅ、っ、…るせ…」
マイクの口調に高揚がにじむ。消太の耳の奥でざあと血液が流れ、頭が冷えていく。
「ココだろ?」
「ぐ、やめ、っく、ン…!」
身をゆっくりと引き、カリ首を残したマイクが、ずぐと急所を穿つ。達したばかりの体を嬲られる苛めに、消太の背がはねた。むずがゆいほどの刺激に体は逃げを打つがマイクの手に抑えられ、上がりそうになる悲鳴か嬌声か知れないものを堪えるしかできない。
「またすぐイッちまいそうだな…抑えて、」
はあと湿った吐息で囁かれた指示。ドアの表面で握り締められた消太の手をはがしたマイクは、精液と先走りで濡れながら再び頭をもたげ始めた消太自身の根元を握らせた。
いやがる手を逃がさないよう、マイクの手がその上を覆う。小刻みに早まったストロークに消太は言葉を失い、息を荒くする。

「はァ…、もっとしょうたの声聞かせて…」
「誰、が…~~~は、……っン…ぁ…」
「強情」
ぐちゅ、とひどい音を立て前立腺から最奥までを思い切り擦り上げられ、消太が喉を反らす。その白い喉仏の隆起に誘われたように、マイクの指がするりと肌の上を滑り、首の上部を人差し指と中指で抑えた。最低限の力でたやすく塞がれた気道に、噛み締められていた消太の唇が酸素を求めてだらりと開いた。追い討ちをかけるようにマイクの親指は頚動脈をおさえ、下腹部を暴く性器は消太の弱いところを小刻みに攻め上げた。
「ひゅ……かはッ……は、ァ、………ひぁ、ぁ、」
どくどくと耳鳴りがする。意識が霞がかるのに、ローションが音を立てる結合部の感覚だけが浮き上がるように強さを増す。喉に引っかかる指が消太の顔を軽い力で後ろに向けさせ、唾液があふれた唇に舌がねじ込まれる。狭い気道へ必死に集めていた酸素すら奪われ、消太は困惑のあまり手の中の自身をぎゅっと握り締めた。極限まで張りつめた欲望は太い血管を浮かせ、色づいた先端から先走りを滴らせていた。とろけそうな結合部の感覚に、消太の口腔からよだれが一層あふれる。前髪のかかる瞳は熱でじっとり浸っていた。
「…はあ、…気持ちよくてしょうがないって顔、してるぜ」
顔をわずかに離したマイクの瞳は、消太の紅潮した頬、意識の薄さをあらわす降りた瞼、震えるまつげすべてを食みたそうに眺めた。
熱に膿んだうつろな漆黒が、エメラルド色に吸い込まれる。マイクの肉棒を食んだ粘膜がさざめき、ピクピクとうごめくのを止められない。瞬間、襲ってきた快感の波に消太はきつく目を閉じる。
「ふ、…~~~~ンっ……ぁ、ぁぁ……あ……」
「っン…ドライでイッたな?…かわいい、消太。酷くされんの好きなの変わってねーの…心配になる嗜好だけど」
濡れた唇が何か言いたげに動いたが、声にはならない。マイクは小さな黒目の焦点が飛びかけているのを見て取ると、青白い首にかけていた指をようやく離した。
障害物のなくなった気道が勢いよく酸素を吸い込み、消太はむせる。急に脳に回った血液に眩暈がし、湿った前髪を金属製のドアに擦り付け、すがった。顔を上げられず、スウェットの下で汗ばんだ背だけが激しく上下する。
「…消太、オレと別れてから他の男と付き合った?」
先ほど冗談めいて尋ねられた質問が、今度は静かな真剣さで繰り返される。と同時に、硬度を保ったままのペニスがまだひくついている消太の内部で動き始めた。酸欠の眩暈と、達したひどい余韻でさざめく体には酷だった。下半身をさらし、半端に脱がされたスウェットと下着の上に、性器をつたって粘性の液がとろりとこぼれる。
「ぅ、…ン……は、…ひ、…ぁ、ぁ……」
「なあ。ココに他の男のモン銜えてヒイヒイヨガったのか?って聞いてんだけど」
答えられないでいる消太の耳に、低く、鋭い声が刺しこまれる。
「ん、…っひ……くっ、…ねえ、よ、っ…!……んなことするバカは……はッ、お前だけだ…」
「オーケー…安心した」
「…今さら、…ひっ、~~~~っ、…何が、してぇんだよ、…はぁ、ァ…」
十年前のあの日、別れ話を切り出せば『わかった』と一言返しただけであっさり承諾した癖に。自分は散々女と付き合って、プロポーズまでしようとした癖に。戯れに過去の関係を蒸し返そうとする男に、消太の怒りがふつふつとこみ上げ、快楽との間に浮かんでは消える。
マイクの答えはなく、代わりに唐突に手のひらが消太の口を押さえる。疑問符をあげることもできず、また首絞めに準じた嗜虐かと消太が身がまえると、かさかさと物音が聞こえた。大男2人が密着するこの室内ではない、ドアの外からだった。
『ママァ、もう開けていい?』
『駄目。お菓子はおうちついてから』
かさかさと、ビニール袋が揺れる音と近付いてくる二つの足音。2つ隣の部屋に住む母親と娘のようだった。消太の脳裏にいつも短く前髪を切り揃えた少女の姿が浮かぶ。同時にすうと頭が冷え、消太は冷静さを取り戻した。もういい、とマイクの手を外そうとしたが、手のひらは口元から剥がれない。スウェットの裾から、もう片方の手が侵入するのに、消太は反応できなかった。
「ッ、…!」
親指と人差し指でぐりと胸の突起を摘まれた刺激に、消太の身が跳ねる。指の腹は過敏な先を苛め、色づいた輪を荒く揉みしだいた。よせ、とマイクの手のひらのなかで消太は制止を囁くが、返すように与えられたのは内壁をごり、と擦り上げる抽挿だった。
「ふ…、っ」
仰け反った消太の耳に、興奮を含んだ熱い息がかかる。逃れられない断続的な刺激に消太の目じりが濡れ、噛み締めた奥歯が軋んだ。消太が声を堪えたところで結合部に粘りつく水音は止まらない。緊張感が指先まで走り、呼吸が荒くなる。かさかさと動いていたビニールの音が、ドアの前で止まった。不審な音が伝わったのだろうか、消太の首筋にじとりと冷たい汗が湧く。
『ママ?』
『ううん、なんでもない』
乾いた買い物袋の音と足音が、遠ざかっていく。やがて遠くでドアが閉まる気配がした。消太の胸で、心臓が激しい音を立てていた。マイクの手がそっと口元から外れる。
「っ、てめぇ…」
「ン…わりー消太が可愛くて…」
殺気立った視線を払うようにマイクは軽い調子で言って首をかたむけると、消太の手の上から硬く張り詰め、先走りを迸らせるペニスをゆるりと扱いてみせる。
「けどさ~消太もコッチはガチガチだし、ナカは吸い付いて奥に誘ってくるし…」
「ッうるせえ…はよイけよ…ド遅漏、」
言葉をさえぎり鋭く言い放つ。すると、耳の裏に唇が触れそうなほど、マイクが顔を近づける気配がした。湿り気を帯びた低い声が、勿体ぶるようにゆっくりと、消太の鼓膜を揺らす。
「No way…遅漏なんてとんでもねーぜ。…お前と久々にしてすぐイッちまいそうなのをクソ我慢してたのよ」
整った鼻先が後頭部に埋まる。消太の手を勃起した芯から外させたマイクの手はそのまま引き締まった尻をなで、逃れられないよう鷲掴んだ。消太が上昇する熱に融けそうな目を瞼で覆った瞬間、激しく揺さぶられる。がつがつと恥骨がぶつかる鈍い振動が、しびれた下肢に回った。
「う、ぁ……ぁぁ、…~~~ひっ、」
太ももがぶるぶる震え、脳が気持ちよさで飽和する。ドライオーガズムがさきほどより強く、大きな余韻を持って、消太の意識を覆った。めまいとともに腰が崩れ落ちそうになるが、マイクがそれを許さず最奥を押し上げる。
「あーーー、!ァ…ぅ、っ、ふ……!っ…ン、…ひ………!」
「はァ……しょうた、腰砕けちまってる…ちゃんと…立って」
気を張るように叩かれた尻の、乾いた痛みさえ今の消太には甘美に響く。 制御できない粘膜がびくびくと収縮し、怒張の形をより強く消太に意識させた。マイクが黒髪をつかみ、震えてうつむく消太を後ろに向かせる。濡れた瞳が交差し、熱に融ける。吸い寄せられるように噛み合わさった唇は、余裕をなくした舌が醜悪にからみ、離れ、またからんで離れた。
「…っ、~クソ…イっちまう………」
マイクが悔しげに呟いた声は色を含んで掠れていた。きゅう、と消太の中が切なく疼き、一層熱を上げる。頭がドアにぶつかり鈍い音をたて響いたが、その痛みに気づかないほど、後頭部に顔をうずめたマイクの湿った吐息が消太を熔かした。
「ぁ、ン、…しょーた、好き………」
熱のはざまにひどく身勝手な告白が零れ、冷えた空気に溶けた。

◇ ◇

ぬと、と透明なゴムで覆われたマイクのペニスが引き抜かれると同時に、消太は崩れ落ちた。下半身はまだ余韻がぞわぞわと絡み付いていた。マイクが消太に目線をあわせてしゃがみ、大丈夫か?と顔を覗き込む。
「………ここ掃除して帰れ。さっさと出頭しろ」
「後でな。奥いこうぜ」
「誰の家だと思ってんだオイ。…やめろ、歩ける」
「ここまでして今さら意地張んのはよそうぜ…」
背を向けて消太の腕を取ると自分の首の前に回し、マイクは無理に背負おうとする。前に回した腕を離してもらえないので、疲弊した消太は舌打ちして仕方なくその背に体重をかけた。
立ち上がる瞬間、マイクの手が玄関の地面に転がっていた指輪の箱を拾い上げる。コートのポケットにそれを仕舞う手の動きを追って、消太は思わず目を伏せた。
「消太サン、オレの首が絞まってる」
「締めてるからな。俺の気持ちがわかったかよ、思い知れ」
「オレはマゾではねーからな…消太と一緒の感想持つのは無理、ぐえ」
本格的に締まった首にマイクが顔色を変えながら寝室にたどり着く。消太は自らマイクから降りると、ベッドの端に座った。
「ケホッ…はー。…布団やめたのか」
「ベッドの方が合理的だからな」
ふぅん、とマイクが相槌を打ちながら横に座る。座るな、と睨んだ家主に笑顔を向けると、前から消太の肩に手をかけて自分とともに倒した。馴染みのある毛布の柔らかさが背を包む。消太は疲労感にそのまま目を閉じたくなるが、当然のように横に寝転ぶ男を排除する使命が残っていた。
「ちょ、ちょ、hey,ストップ消太!落ちる、ンな全力で蹴らないで」
「お前はのん気に昼寝してる場合じゃねぇだろ。…あと香水くさい、匂いが付く」
「それはゴメン。シャワー浴びてくるわ…」
「オイ待て、当然のように居座ろうとすんな」
どんだけ図々しいんだ、と思いながらもそれを嫌ではないと感じてしまっている自分を自覚し、消太はため息を吐く。

「しょうがねぇな。お前の気が済むまで失恋話を聞いてやる」
「失恋ねぇ…」
「指輪見せろ」
マイクは何か物言いたげに逡巡したが、結局コートのポケットに手を入れ、品のいい小箱をベッドの上に置いた。消太が目で開けていいか尋ねると、かすかに頷く。箱を開けば、消太の想像以上の輝きが網膜を刺激した。窓から弱く差し込む外の光を静かに受け止めるプラチナの光沢。その輪を、ダイヤモンドが縦列を作って飾っていた。
「…一級品じゃねぇか」
「まぁなー彼女ハデ好きだからさ」
からかいの文句でも言ってやろうと思っていた消太だが、その輝きにあてられ続く言葉を失う。するとマイクの指が指輪をそっと台座からつまみ、反対の手で捕まえた消太の左手の薬指に近づけた。
「よせ、」
婚約しようと思った女性に対して買った指輪を、以前恋仲にあったこんなくたびれた中年男に。冗談でもあまりに悪趣味だ、と嫌悪感に消太が手を払おうとするが、輪はするりと指を通り根元まではまった。きらきらと不相応に、しかしサイズぴったりで自分の指で輝く指輪に、消太は目を見張る。
「んだこれ…お前の彼女、ずいぶん指が太ぇな?」
「いやトップモデルの指はもっと可憐な細さだぜ。…これはサイズ間違えたんだ、情けねぇことに」
「は?」
仰天する消太にマイクは恥じ入るようにシーツの上で顔を抑え、ため息をついて再び口を開いた。
「完全にボケて間違えちまったんだよ…。自分の指とぜんぜん違うサイズの婚約指輪を渡してきた男に、彼女はブッチ切れちまった。やっぱり浮気してたのね、私なんかどうでもいいんでしょ、って。浮気はしてねーけどさ、そりゃそう思うだろうな。普通は間違えねー…」
「……お前、驚く程バカだな。知ってたが」
消太の言葉にダメージを受けたのか、マイクの口元が歪む。しかし反論できる材料はない。
「言い訳するつもりはねーが、しばらくマスコミが周りウロウロして眠れてなかったんだよな…変な記事が出ちまって雲行きが怪しかった彼女との関係がいよいよピンチになった。焦ったオレは今朝彼女に会う前にマスコミ巻いて指輪買いに行ったわけ、ボーッとした頭でな。で、デザイン決めたはいいが、店に並んでたサイズ見本のリングから選んじまったのがこの大きさって訳だ」
余計な物音を耳に入れたがらないほど、神経過敏なところがある男だった。記者に追われるストレスを常人以上に感じていたに違いない。消太はその性質と弊害を知っているだけに、腑に落ちる部分があった。
「…同情はするが、マヌケすぎるな」
「雨降って地固まる、にならねぇかな~と思ったんだけどな。グッチャグチャになっちまった」
「地盤ごとトレーラーで持ってかれたな」
消太は呆れながら言うと指輪を外し、箱に収める。その様子を静かに見ていたマイクが、箱から離れた左手を再び掴んだ。

「…頭に思い浮かべる指を間違えたんだよな」
ふいに消太の手が引かれ、薬指にマイクの唇が触れる。エメラルド色の瞳が、透けるように澄んだ色で怪訝そうな消太の顔を映した。言葉の意味にやっと気づいたその顔がカッと赤くなる。
「何…、…二十いくつのモデルとこんなオッサン間違えようねーだろ」
「間違えようねーなぁ。結局俺は無意識にお前を求めてたんだろうな。ホテルで半狂乱になって泣く彼女の顔見ながらやっと気づいたぜ、今日。ひでー話だけど」
消太は言葉が出なかった。十年前、二十歳の別離の記憶はほんの一瞬で終わる。まだ狭いマイクの家で過ごした十一月八日、その深夜の去り際。
『このまま一緒にいても不自由が多いし、将来の可能性を狭めちまう。別れるのがいい、と俺は思う』。消太の言葉に、マイクは『わかった』とだけ答えた。お喋りで自己主張が強いはずのこの男が、一言であっさり承諾したのだ。高校二年から四年続いた関係は、たった十秒の別れ話で終わった。思い出すと、消太の胸が疼く。自分から別れを切り出しておいて身勝手だと自覚しながら。
「…合意の上、だったろ」
「おー合意したよ。お前が別れ切り出すの分かってたからさ。…ずっとそばで見てたし、お前がちょっとずつ俺から距離を置こうとしてたの気づいてた」
オレに結婚してフツーにガキ作ってほしいって思ってんだろうなってのもさ…、と付け足した口調は暗い。

「反対しなかったじゃねぇか。あっさり承諾しやがって」
「お前これが正しいと決めたらオレが何言っても覆さないじゃん。それにオレのハートはズタボロだったんだぜ~?何となく心の準備はしてたけど、マジで言われるとやっぱさあ…」
当時を思い出したのか、消太を見つめるマイクの瞳が涙の膜を張り、場に不釣合いに輝く。
「オレは自分の気持ちをお前に何百回も伝えてきたつもりだった…けど何にも伝わってなかったんだなァァって…お前が帰ってドア閉まった瞬間床に崩れ落ちて泣いたよ、オレは」
十年前の別離の痛みと、今胸にわいた後悔がない混ぜになって消太を刺す。二十歳になったばかりの自分も、マイクの家を早足で出た後、少しだけ泣いた。それでもこの男が流した涙の量には叶わないだろう。
「…悪かった」
消太はそれだけ言ってマイクの瞼に口付け、頭を胸に抱き寄せた。成人して大人になったつもりだったが、理論上『正しい』ことが必ずしも『最善』ではないと、分からないほど若かった。自信のなさが、目を曇らせた。
「オレがほしい言葉はそれじゃねーよ…」
消太なりに考え選んだ別れを、マイクは責めてはいなかった。消太を引き止められなかった自分のか弱さが情けなく、異性でその痛みを癒せると盲目的に思い込んでいた愚かさを呪っていた。
この十年を埋める言葉は一つしかなく、沈黙のなかで自然と消太の唇に舞い、落ちた。

「好き、だ」
不器用な男からこぼれた告白に、マイクが一瞬黙ってから口を開く。唇の端に嬉しさをにじませながら。
「Tell me more… もっと」
言葉に詰まる消太の表情を眺めて楽しんでいる。この野郎、と憎らしく思いはしたが、今日ばかりは譲歩してやる。してやりたい、と消太は思った。
「好きとか愛してるとか、正直よく分からねぇ。…が、おまえに好きって言われんのは嬉しいし、触られんのはいやじゃねぇし…その目で見られると、落ち着く」
淡く明るいグリーンが融けそうなほど柔らかく消太を見つめていた。ガラスを隔てずそれを見たのはいつ以来か。日常の殺伐を忘れてしまいそうなほどに、消太は自分の鼓動が穏やかになり、鋼鉄製の心臓がゆらりと人のそれに戻る気持ちがした。久しぶりの感覚だった。
若き日に、陽射しに透けるこの宝石色に見惚れた。年を重ねる毎に、同じ瞳を持った子どもが生まれない世界に、罪悪感を覚えた。
消太は指通りのいいさらりとした金髪をかきあげる。
「好きだ、…ひざし」
久しぶりに呼んだ名は、まるで舌の裏でいつも呼ばれるのを待っていたように自然に口から溢れた。ふわ、と顔に温度が落ち、同時に前歯に奇妙な衝撃を受ける。
「!…ん、ふ…」

衝動のまま荒っぽく舌を夢中で絡めるだけの口付け。脳裏に、学校帰りのある夏の日の情景がふと蘇った。唇が離れた隙に消太が、下手くそ、と呟くと、ひざしの目が恥ずかしそうに笑って長い舌をそっと差し込む。三十路の顔に戻った男は、唇を離すとたまらなそうにため息をついた。
「はあ…小汚ェヒゲだな…浮浪者かよ…」
ひざしの指が消太の無精髭をぐりぐりとなで回す。
「ドライヤーかけねぇから髪もぐしゃぐしゃだし…床拭いたモップかよ、素材はいいのにもォォ…許せねぇ」
ドライヤーはひざしが家にこなくなってから使われることなく、押し入れの奥底に仕舞われていた。
「けどそれがお前だし、全部が好きでたまらねぇし…ずっと触りたかった」
ちくちくと肌触りの悪い消太の頬にほおずりし、髪をなで回す。金糸にくすぐられながら、消太は無精ひげなどとは無縁の、つるりとしたひざしの顎に触れ、意趣返しに小さく整えられた髭を引っ張ってやる。
「…お前と付き合った女が気の毒だな」
美しいモデル達はひざしがこんなひげの三十路男を選ぶとは思いもしなかっただろう、と暗に言う。ひざしは多少の申し訳なさもあるのか、考え込むように少し黙ってから答える。「女の勘は不思議なモンでさ…付きあってるとみんなオレに浮気してるだろって言ってきた。デートは完璧だし、浮気なんかしてねーのになんでだ?と思ってたけど、今思えば分からなくねぇな」

ひざしは消太を見つめながら、浮気じゃなくて本命だったわけだけど、と付け足す。
「ま、オレは本気で相手を楽しませたし、オレも楽しもうとしたし。それでいいんじゃねーか」
ひざしはそう言うと、目の前に置かれたままだった指輪の箱を押しのけてベッドの隅にやる。ついでとばかりに自分の指にはまった、記者の血で汚れた二つの指輪を外し、その横に放った。それから消太のスウェットの裾をめくりあげる。
「何脱がしてんだ」
「ン?邪魔な物は捨てちまおうぜ」
ひざしの手が、消太の体からスウェットを脱がしていく。仕返しに、消太の手も着込んだひざしの服を掴んだ。スウェット上下一枚の消太に対し、ベルトを嵌め細身のパンツに足を通したひざしの格好はどうにも脱がしにくい。慣れない洒落た服と格闘する間に、消太はあっさりと全裸にされてしまう。
「ヒュー…お兄さんイイ体だねぇ」
「お前も同じようなもんだろ」
彫像のような隆起をなす腹筋を、ひざしがそっと撫で上げる。ふざけて囃した笑みはいつの間にか消えていた。
「オレの知らねー傷ばっかり…」
伏せた金のまつげが落ちた。一番大きな右胸の下の傷を、指の腹がなでる。凹凸を確かめ、敬虔な儀式のような静けさで唇がふれた。乾いた表面を、そろりと這う舌が湿らせていく。
くすぐったい、やめろ。消太は正直に文句を放ちたかったが、伏せたひざしの眼差しに何となく言葉を変える。
「きれいな女の体が恋しくなったろ」
「…だったらまだ良いのにな」
心情は答えず、苦笑したひざしが消太の手を取る。節のある薬指をするりと撫でた。
「…ただの自己満足だけどさ、落ち着いたらワッカ買わしてくれねーか消太。もちろんシンプルな奴な」
ワッカ。指輪、という言葉も物も好きではないであろう消太へ、あえて軽い調子でひざしは言った。輪投げかよ、と口にすれば、まあそんなもんだな、一番いい景品狙って投げるところは一緒、と返ってくる。
「しばらく無職になるかもしれない奴が何景気いいこと言ってんだ」
「Uh,それ言われるとすげぇブルーになるけどサ~…当座の蓄えは十分あるんだよな。それにたぶん優しい恋人が飯食わしてくれるだろうし?」
「…ヒモはいらねーぞ」
「主夫ならいいだろ」
消太はふーとためいきをつくと、指を触るひざしの手を払う。消太の身を案じ、目に見えないものを不安がるこの男の心情を理解しないではなかったが、だからこそシンプルな言葉を返してやりたかった。
「余計なモノはいらねぇからそばにいろ。そんだけでいい…ゴチャゴチャ心配すんな」

くっとひざしの口端が持ち上がる。少しの悔しさと嬉しさの両方をにじませながら。
「ハ~敵わねぇな…」
ひざしはまぶしげに目を細めると、無精ひげの生えた頬を手のひらで包み、色の薄い唇に口付けた。
その手は長く伸びっぱなしの前髪を掻き、白いシーツに黒を散らす。さざめく布の隆起には過ぎた時が溶け出し、しずけさの中で唇の音だけが今の時を刻んでいた。やがて急くように間隔の短くなった口付けに飲まれそうで、消太は思わず顔をそらす。
「…ぷはっ……しつけぇ。お前の肺活量に合わせると俺が死ぬ」
「ローマンチック。恋人のキスで昇天なんてヴィラン相手に死ぬよりよっぽどいいじゃん…お勧めすんぜ」
「どこがいいんだ。年取ってもお前のバカは直らねぇな…」
ひざしは声をあげて軽く笑うと、消太の頬に自分の頬を名残惜しげにすり寄せた。