どんな英雄もいずれ小さな骨壺に収まる。
ヒーローの葬儀が催される度に人々はその事をまるで初めて知ったかのように衝撃を受け、手を合わせるのだった。
相澤は焼香の匂いに満ちたホールの重厚な両開きの扉を開き、外に出る。冷たく新鮮な冷気を大きく吸い込むと、植え込みの前で佇んでいた男が目についた。髪を下ろしていてもブロンドは夜の暗がりの中で微かに発光して見える。
「目立つな、お前は…」
「オーイエス?お前に見つけてもらうためにな」
マイクは微笑んで答えると、敷地の出口に向かって歩き始めた相澤の隣に並ぶ。午後に授業の少ないマイクは相澤より早くここに到着し、ヒーロー殺しの新たな犠牲者への焼香を済ませたらしかった。
「先生」
声がしたのは相澤達とは反対に会場に入って来る人波の中からだった。職業柄、染みついた反射で相澤とマイクが揃ってそちらに首を向けると、父エンデヴァーと共に喪服の轟焦凍が片手を上げ、小さく会釈した。後ろにはホークスも顔を覗かせる。
「轟、久しぶりだな…活躍テレビで観てるよ」
「うす…年賀状ありがとうございました」
「こちらこそ」
出入りする人を避け、相澤は元教え子と共に声を抑えて会話を交わす。卒業生の中には時々母校に立ち寄る者や、仕事でよく相澤と顔を合わせる者もいる。焦凍はどちらにも当てはまらず直接顔を合わせるのは久々だが、彼は律儀に相澤に毎年年賀状を送って寄越していた。
「…お前達いつも一緒にいるな」
焦凍の横でエンデヴァーがマイクと相澤の顔を眺めて木訥と呟く。相澤からすればそんなことはないが、あまり会う機会のない彼からすればそう見えるのだろう。焦凍もコクリと頷いている。
「…新たな犠牲者が出た。体制強化が必要だ」
暗闇の中でエンデヴァーの目が強く光って相澤達を見た。
「陣頭指揮はエンデヴァー事務所が執る…ヒーローの死は希望の消失になる」
ホールから響く読経に紛れることなく、ナンバーワンヒーローの静かな声は相澤の耳に響いた。ホークスまで揃っているところを見れば三人は作戦会議でもしていたのだろう。オールマイト引退後にナンバーワンヒーローとなり、激戦を制してきた彼の肩を乱れのない覇気が覆っていた。
「お前達二人も気をつけてくれ。プレゼント・マイク、特にお前は目立つ」
「ご心配どうも。気ィ付けます」
マイクの答えに頷くとエンデヴァーはホールに向けて歩き始め、ホークスも軽い会釈をして後に続く。焦凍は相澤に目を合わせて、じゃあまた…と挨拶すると、二人に続いた。
◇ ◇
タクシーはほかの弔問客を乗せて出払っており、マイクも今日は派手な愛車に乗ってくることができなかった為に斎場を出た二人は駅に向かって歩いていた。
「…随分参列者が多かったな」
相澤は焼香のために並んだ長蛇の列を思い返しながら呟いた。今までもヒーローの葬儀には数え切れない程参列しているが、あれほど多いのは珍しい。確かに通称カンフーヒーローの彼は若手ながらビルボードチャート19位の位置にいた実力者ではあったが。
「ネットでスゲー人気があった子だからね」
マイクは漆黒のポケットから自らのスマートフォンを取り出し、ガラス面の上で指先を踊らせてから相澤に見せた。画面上で動画投稿サイトに掲載されたカンフーヒーローの戦闘シーンの再生が始まる。『K市繁華街での9対1』とタイトル付けされている通り、彼は次々と襲いかかってくるヴィラン9人をものの1分で倒してしまう。相澤も目を見張る華麗な突きと足技。
動画再生回数は2億回を超えており、マイクの言葉通り『スゲー人気』を裏付けていた。投稿者はカンフーヒーロー本人らしく、他にも彼が投稿した別の戦闘シーンのダイジェストが関連動画としていくつも上がっていた。
「…ノヴァ世代か。知らなかった」
「葬儀に来といてソレかよ、もー!オメーは猫チャンの動画しか見ないからなァ」
「ほっとけ」
ノヴァ世代とは、これまでのヒーローと違いマスコミ経由ではなく自ら動画サイトやSNSで自分の活躍を発進する新しいタイプのヒーローだ。若手のうちのまだ一握りだが、その一部がギラギラと新星(ノヴァ)のように目立ち注目を集めているため定着した概念だった。去年の流行語大賞でもある。
相澤はある潜入ミッションの為にカンフーヒーローの彼と組んだ時のことを思い出す。
『イレイザーヘッドの体術、無駄がなくてキレがあって凄くかっこいいですね』
『今度俺と対戦しませんか。ヒーロー同士の模擬対戦、動画中継するとムチャクチャ跳ねるんですよ』
敵のアジトを駆けている最中に笑顔でそんな誘いをかけられ、相澤は眉をひそめて受け流したのだった。彼は確かに自分自身を含めヒーローをネットコンテンツにすることに長けていたのかもしれない。
「有料のファン向け動画サイトもやってて会員数はかなりのもんだったぜ」
聞けばマイクも自分のラジオに呼んで彼と対談したことがあるらしい。
故人のヒーローとしての在り方に何か言うつもりはない、そんなものは人それぞれだろう。しかし平和の象徴としてたとえ瀕死でも毅然として立ち上がり勝利の姿をメディアに映し続けたオールマイトを見て育った相澤からすれば、ノヴァ世代のやり方はなじみがないものだった。
(雑念が増えるんじゃないか)
ヒーロー業はショウではない。人助けより見栄えのいいシーンの撮影に気を取られるようになれば本末転倒な気がした。
「お前の考えも分かるぜ?」
相澤は無表情、無言を貫いていたが、マイクは訳知り顔で言う。
「カンフーヒーロー…彼の個性は筋力を1.2倍に増強すること、つまりほぼ無個性。にも関わらず19位まで上り詰めたのはそれだけ自分を鍛え続けたってこと。そして見向きされなくても地味~に動画配信を続けた努力のタマモノでもある」
確かに以前組んだ時の彼の身のこなしは若手でも一、二を争うものだった。
「視聴率優先のマスコミは基本的に人気のあるヒーローやド派手な個性のヒーローしか取り上げないしなァ…地味な個性の若手は自分で頑張るしかねーんだろうな」
サイドキックを雇い事務所を安定して運営するには金が必要だ。ヒーローが食い扶持、つまり収入源を増やすことは悪いことではない、と相澤も思う。旧来型のヒーローがヴィラン討伐の報奨金の多寡をめぐって最後の一撃を醜く奪い合うシーンもある。報奨金に頼らず動画配信で自分で金が稼げるならばそんなことも起こらないだろう。
(しかし、面倒だな…よくやるよ)
ヒーロー業をこなしながら自分で自分を発信するなど並大抵のことではない。相澤にとっては考えるだけでも面倒だった。
駅が見える。黒一色ではなく、色のある服に身に纏った酔客の群れが明るい顔で行き交い、二人はその中に埋没した。ホームに向かう階段を上っていると、
「やだよ、いきたくない…」
と甲高くすすり泣く女の声が聞こえる。階段の途中、端に寄って固まった礼服の若い女性三人がいた。女子高生か、大学生か。彼女たちは階段を下り斎場へ向かうところのようだった。恐らくカンフーヒーローの葬儀へ。しかし一人が階段途中で泣き出してしまったようで、周りの二人が肩を抱き何かを囁いている。
確かに斎場には学生服を着た十代の男女の姿も数多くいた。派手な個性ではないが華麗に敵を倒す日々を発信する若いヒーローは彼らにとってどこか親近感を感じられる憧れの存在だったのだろう。階段を上り終えた相澤が振り返ると、若い彼女達は階段の下で隅に寄ってしゃがみ込んでいる。黒い肩が震えていた。
マイクに続き改札を通り抜けると、広いホームにまばらに通勤客が佇んでいた。電車の到着を知らせるアナウンス。冬の暗い夜の中、まばゆい光を灯した列車が遠くから向かってくる。
「…、俺達は死に慣れ過ぎてるな」
ホームの騒々しさに小さな呟きが紛れる。情報伝達でもなく答えも必要としない相澤消太にしては珍しい非合理。こぼれ落ちたのは隣にいたのがマイクだからだろう。冬の冷気に溶けてしまいそうなぼそりとした低音をこの男はきちんと拾った。
「慣れてるふりしてるだけだろ?俺達も」
それが大人だしヒーローだから、って…、マイクはそう言うと相澤の手首を強く掴み、人を掻き分け満員電車に乗り込んだ。
◇ ◇
朝、出勤してきた心操が目の当たりにしたのは職員室の机で並んで突っ伏している相澤とマイクの後ろ姿だった。う~…と聞こえるゾンビの鳴き声のような呻きからすると、どうやら二日酔いらしい。
「二人とも昨日は葬儀に行ったんじゃなかったんですか」
「帰りに飲み過ぎちゃったんだって」
答えられない二人の代わりにティーバックが覗く愛用のマグカップを手にしたミッドナイトが答える。
「俺の最寄り駅についた途端このバカが『飲もうぜ』って…」
「新任の頃よく行ってた居酒屋に久々に行っちゃってさ~…オッチャン相変わらずだったからハシャいじゃった…」
相澤とマイクが重たそうに頭を上げながら言う。相澤の目は普段の倍以上にどんよりと気怠げで、二人の顔色は紙の如く蒼白だったが、手元では出席簿と教科書をたぐりそれぞれSHRと授業の準備を始める。さすがプロだ、心操は感心する。
「も~仲良いわね本当…いい加減結婚すれば?」
同性婚認められてるわよ、と囃すミッドナイトに、相澤は亡霊のように立ち上がりながら答える。
「死んでも嫌です」
「俺もこんな小汚ェ髭ジョリジョリ、ノーセンキュ…」
そう言いながら二人はふらつく互いを受け止め足取りを安定させると、出席簿と教科書を小脇に抱え職員室を出て行く。
「俺帰ったら確定申告やらなきゃいけねーのよ最悪…」
「どうせ事務所の秘書任せだろ…」
「だけでもねぇの。秘書に触らせられない領収書とかあんだろ、イロイロ…」
「スケベ根性で美人の姉ちゃん雇うからだ」
「ユミちゃんは超優秀なサイバー娘なんだよ、それで採用したらたまたま顔もスタイルも良かったの」
「どうだか…。俺の分も頼めないか。確定申告」
「またかよー!? いい加減事務所立てて人雇えって」
「奢る。お前と事務所のスタッフ全員」
「東京のウルフギャングで貸し切りパーティーしたいナ」
「ふざけるなよお前…」
廊下を歩く二人の会話がやがて聞こえなくなる。心操の授業は二限目からで、ミッドナイトもそうらしい。職員室に他に人はいなかった。
「…あの二人ってそういう仲になったことあるんですか」
『いい加減結婚すれば?』と相澤とマイクにけしかけたミッドナイトに心操は尋ねる。彼女は高校時代の二人のことも知っている貴重な存在だ。自然な話の流れで核心に迫るチャンスだと思ったが、同時になんと答えられるのか怖くもあった。そんな心操の表情を眺め、ミッドナイトは艶やかな赤い唇を愉しげに微笑ませる。
「一歩踏み外せば危うい距離感だけどね~…でも恋仲になったことはないわあの二人。私の知る限り」
彼女は目の前の青年の純情を堪能するようにゆったりとハーブティーを飲むと、でも…、と付け足す。
「お互いそうならないように気をつけてる、って感じがするわね」
なんとも愉しげな表情だった。
梅が花開き冬の寒さがピークを迎える二月半ば、日曜の朝。卒業する自分の生徒全員の進路が決まり、相澤は久しぶりに心穏やかな日々を過ごしていた。エンデヴァー事務所の陣頭指揮でビルボードチャート上位のヒーロー達の各活動エリアを中心に警備が強化されたためか、ヒーロー殺しもあれ以降出現していない。外は寒いが、つかの間の平和を象徴するように晴れていた。今日はゆっくりしようとインスタントコーヒーの湯気を立たせていると、相澤の携帯に一本の電話が入った。
『うまい飯奢るからちょっと付き合ってくれない?』
相澤の安息を破ったのはいつも通りの男だった。生徒たちの進路が決まり気が緩んでいたのだろう。この非常にあいまいな誘い文句に大して考えもせずに乗ってしまった自分の甘さを、相澤は後に酷く後悔した。
「帰る」
「帰さねーよ…」
2時間後、相澤は市内某所で自分を呼び出した張本人、プレゼント・マイクこと山田ひざしと昼ドラめいた茶番をしていた。人がまばらに行き交う路上の上で相澤の手首をマイクが掴み、引き留めようとする。
「ふざけるなよ、絶対に御免だ」
二人の背面には水色の平屋根を乗せた三階建ての家屋があった。通称『ハウススタジオ』という、ファッション雑誌などで家の中のシーンを撮影したい時に使われる、家具の置かれた部屋型のスタジオだ。
「モデルなんぞ俺がやると思ったのか?そのめでたい頭洗濯機で回してこい」
「仕方ないじゃん、今日ペアの予定だった奴Ωなのに抑制剤さぼってヒート発現させちまったから来れねえんだって!」
「お前が二人に分身しろ。じゃ」
「無茶言うなよ!後でうまいもん奢るから、な?消太~~」
相澤が手を振り払って帰ろうとすると、マイクは逃がさじと抱きついた。ハウススタジオは大通りから一本入った路地にあったが、百八十センチ台の男二人が路上の上で抱き合う姿は目立つ。通り過ぎる若い女性達が生温かな好奇の目を寄越した。相澤は額に青筋を浮かせ、溜息を吐く。
「…大体お前がモデルやってるなんて初めて聞いたぞ」
「話したことあるけどお前が酔っ払って忘れてるだけ」
「酔っ払ってるときに話すな」
「理不尽!」
振り払おうとする相澤と抱きついて離れないマイクが再びワーキャーと押し問答をしていると、スタジオの入り口から出てきた撮影補助の若い男性が声を張った。
「すいませーん、カメラさん次の仕事あるそうなんで準備早くしてもらっていいですか」
◇ ◇
「助かりました、当日に都合がつくマイクさんと同じくらい高身長のモデルさんって全然いなくて…」
ファッション雑誌の編集者を名乗るまだ二十代前半と思われる青年はそう言ってはにかむと、相澤に名刺を渡し手早い挨拶を終え、スタイリストの邪魔にならないよう衣装カーテンの向こうへ出ていった。彼の名前の横に綴られた出版社名は、相澤の知らないものだった。教師と書籍は切り離せないため相澤も一通り大手と中堅の出版社は知っているつもりなので、小規模な会社のようだ。
「準備できた?お、いーね。スゲー男前」
「…半袖なんだが」
胸に白文字のロゴが入ったネイビーの半袖。生地はよく見れば細かく編まれたニットのようだが、冬に着るものとは暑さが全く異なりぺらぺらに薄い。淡い青の細身のジーンズも厚手とは言えず、さらに腿から膝にかけて軽く引き攣れたダメージがある。肌が見えるほどではないが、とにかくこの時期に着るには心許ない。
「半年先の号の撮影するのが通例だから夏服なの」
そう言うマイクを見れば確かにペールグリーンの薄い半袖シャツと足首の出る細身のパンツを穿いている。金の髪を下ろし少し緩やかなウエーブをかけた毛先は軽やかだ。
「相澤さんすごく素敵ですね。僕びっくりしちゃいましたよ」
「だろ?俺の秘密兵器」
何を調子のいいこと言ってるんだと相澤は内心呆れたが、ワックスをまとったスタイリストの手が伸びてきたので黙った。自分が褒められる以上にマイクが嬉しそうに笑うので少し怒る気が削がれたこともある。
「じゃ、まずソファでの撮影シーンから…お二人談笑してる感じでお願いします」
◇ ◇
編集者の彼が室内でパソコンを拡げ、カメラマンと共に撮ったばかりの写真をチェックする。マイクはその後ろから画面を覗き込み、写真を講評するプロ達の会話に加わっていた。相澤は衣装を身に纏ったまま、ソファにぐったりともたれていた。慣れない撮影にくたびれていた。
「ふはっ、消太顔死んでる」
「…お前にどんな高い飯を奢らせようか考えてる」
「怒るなって。凄いよく撮れてたぜ?風谷さん、見せてやってよ」
編集者の彼がノートパソコンを持って相澤の元へやってくる。はい!と向けられた電子画面には、輝かしいブロンドに小綺麗なシャツをまとった美しい立ち姿の男と、その隣でソファに座る黒髪の男がいた。袖の下で密かな膨らみを見せる二の腕は雄々しく、気怠い眼差しは湿度のある色気を含んでいる。淡い自然光が射しコントラストの深い写真の中で、相澤は片側に陰をまといながら男としての魅力を際立たせていた。
「…プロは凄いもんですね」
相澤の一言に、編集者の後ろから顔を見せたカメラマンが照れ笑いした。
「素材もいいからだぜ?」
マイクは歯を見せて笑うと「さ、次の撮影シーンだ!」と言った。
相澤は愕然とした。
「次の、とは…」
相澤の小さな呟きは誰にも拾われず、他の面々は備品や私物を持ち上着を羽織ってそそくさと移動に向かう。相澤は途中下車できない長距離列車に乗せられたことにようやく気付いた。
◇ ◇
「そうだマイクさん、これ。忘れないうちに」
移動の車中、後ろに座るスタイリストの女性がマイクに声をかける。彼女の手はマイクと相澤の間の座席の隙間からメッシュ素材の白い袋を差し出していた。中には何か箱が入っているようで、あ!もしかしてあれ?!と声をあげたマイクはすぐにそれを受け取り頬を上機嫌に艶めかせた。
「センキュー…すっげうれしー」
マイクは鞄から長財布を出すと彼女に紙幣を渡す。剥き出しで悪いけど、と言いながら。
「いやいやいやくれ過ぎです!多いですよ、マイクさんいつも!」
「手間賃とか色々。すげー嬉しいもん俺」
「いやいや、でもー…!」
現金を間に挟み押し問答をしている二人をよそに、相澤はマイクの手の中にある袋を覗き込む。靴箱のサイズだ。マイクは相澤が関心を示す珍しさに微笑み、箱を取り出して開いて見せる。中には黒いスウェードのショートブーツが入っていた。
「英国の小さい工房が作ってるデザートブーツ。前に撮影で履いて気に入ったんだけど欠品で全然手に入らなくてさ。彼女に頼んでたの」
相澤はマイクが箱の中から持ち上げてみせたブーツをまじまじと見る。抑えられた光沢のあるなめらかな黒い革がブーツを品良く形作っていた。マイクは靴底を親指で愛おしげに撫でながら、このソールも好きでさ、と話した。
「…モデルって撮影で使った服とか靴もらえるんじゃないのか」
靴底の細工やインソールの金色のロゴの説明をするマイクに、相澤は素朴な疑問を挟んだ。
「よく聞かれるけど実際には全然貰えねーのよ。基本的に発売予定のサンプル借りるだけだから全部返さなきゃいけない」
そういうもんか、と相澤は納得する。
「けど、この仕事やってると自分の好みじゃ探せない服とか靴に出会えるからね。楽しいぜー?」
靴箱がマイクの手によってそっと閉じられる。相澤はいつも訪ねるマイクの家の玄関の様子を思い出す。相澤の背丈と変わらないメープルウッドの大きな靴箱が壁際にそびえていた。中ぎっしりの。
「…お前服や靴どれだけ持ってんだ?」
「え、ンーと…家とは別に60平米のマンションの一室借りてるけど、その半分が埋まるくらい」
服のために別宅まで借りているとは知らなかった。マイクは眉を上げた相澤の表情をどう捉えたのか、お前が服に関心あれば着なくなったのまとめてやるんだけどなー…、と残念そうに呟く。
「あ、この撮影きっかけにオシャレに目覚めたりしない?…しねーか」
「しないな」
「飾らないもんなお前は…そこがいいんだけど! でもファッションって案外いいもんよ? 好きなアイテムで全身キマってると最高に気分が上がる」
マイクも自分の言葉が相澤に響くことはないと分かっているのだろう、車中の気ままなお喋りだ。編集者やスタイリストもマイクと相澤の会話をほほえましく聞いているようだった。
「気分が上がるだけじゃない、『自分はこういう人間だ』って周りの人間に示すこともできるしサ。たとえば俺のヒーロースーツと髪型! 何者にも揺らがぬハードな男って感じでしょ」
「服に頼らないと心揺らぐのかお前は」
「んなシヴィー突っ込みやめてよ消ちゃん…」
マイクが甘えるように相澤の肩に側頭部を落とすと、周囲から笑いが零れる。指先でしっしと払うと、唇を尖らせたマイクが大人しく離れた。と、車を運転する撮影助手が次の撮影場所に間もなく到着することを告げたので、相澤は話を本題に戻した。
「何にせよ…持て余してるなら捨てればいいだろう。別宅なんか借りずに」
一年のうちほとんどはヒーロースーツで過ごすのだ、相澤からすれば私服を沢山持つことは無駄に思えた。頼まれればお前の別宅に行ってまとめてゴミに出してやるが、と言えば、マイクはとんでもないという顔する。一品一品思い入れがあるらしい。
「つくづく合理的じゃないな、お前は」
「一時でも自分が好きだったもんそんな簡単に捨てられないって! もの捨てられない母性本能くすぐるタイプなのよ」
「……」
「寝てる?!」
◇ ◇
相澤がその日知ったこと。
今回撮影した写真はメンズファッション雑誌『3rd』の夏の号に掲載されること。3rdは大手出版社が発行する書店に行けば必ずあるという類いの有名誌ではなく、その対極にあること。ブランドからの掲載依頼は受けずに少数精鋭の編集者たちが自ら世界中の大小ブランドを調べ、良品を取り寄せて紹介していること。常に赤字のこの小雑誌をマイクは二十代の頃から愛読しており、数年前に自分のラジオ番組で編集長を招いて対談したこと。番組中の『うちは専属モデルを抱える予算もありませんから。マイクさんにモデルやってほしい位ですよ』『マジ!?いいのー!?』という軽いやりとりがきっかけとなり、それ以来マイクのモデルとしての副業がスタートしたということ。
相澤には初めて知ることばかりだった。だが何より衝撃を受けたのは、冬のモデル業が想像以上に過酷である、ということだった。
グシュ、と相澤がくしゃみをしたことで一時撮影がストップする。郊外のとあるカフェの、この時期には利用者のいないオープンテラス席を貸し切って『ビヤガーデン』風の撮影シーン。氷バケツに入っていたハイネケンをかち合わせ、『キンキンに冷えたビールと共にまばゆい酷暑の午後』を過ごす男二人の剥き出しの腕や肩を、2月の極寒が襲う。爽やかな撮影シーンに合わせて衣装は先ほどよりもさらに薄手になり、二人とも膝下を露出していた。相澤からすればどんなに高級で洒落た服であっても半袖と短パンはただの布きれだ。
「相澤さん、唇が青いですね…大丈夫ですか?ちょっと休憩して温かいもの飲んでから再開しましょうか」
「いや、俺は大丈夫です」
寒さの中夜通しヴィランを待ち伏せすることもある。氷が張った池に落ちた子どもを救出したこともある。これくらいのことは平気だ――しかしそれは精神の話で、血の巡りが悪い相澤の肉体は本来寒がりだった。相澤の精神が耐えられても、カメラは色を失った唇を映してしまう。キンキンに冷えたハイネケンの瓶を持つ右手はしばらく前から感覚がなく、凍てつくような鋭い風に嬲られる肌にも鳥肌が浮いていた。
「…すいません。続けましょう」
「ちょっと待って」
撮影の続きを促した相澤の言葉に、マイクがストップをかける。テラスの隅に置かれた自分の鞄の中を探ると相澤の元に寄り、ハワイ・マウイ島のブランドだという限りなく薄いTシャツをめくりあげた。
「ッッツ」
腹に氷のような外気が入り込み相澤は白目をむく。と、インナーのタンクトップの上にぺたりと四角いものが貼られた。
「…持ってるなら早よ寄越せ」
「消太にも冬のモデル業のハードさを体感してもらおうかとね」
ニシ、と笑いマイクは相澤のインナーの腹部に二枚の大判のホッカイロを貼ると、後ろに回り込んで背中の下部にも一枚貼った。
「つーかよ、冬にこの薄いインナーは無くねえか?俺保温インナー着てホッカイロ貼ってフル装備だぜ」
「お前が詳細言わずに呼び出したからだろうが」
「だ~って詳細言ったら絶対来なかっただろ。うおッ、手ェ冷たっ」
マイクは言いながら相澤の両手を握る。同じハイネケンの瓶を傾けていた筈なのに、マイクの手は不思議と温かい。ホッカイロがまだ発熱していないこともあり、相澤は手からじんわりと伝わってくる温もりに素直に甘んじた。冷えた指先を両手で握り込み、手の甲を包んで温められる。…そういえば昔もこんなことがあったな、と相澤の脳裏に過去の記憶が浮かぶ。今日と同じような極寒の2月、雄英高校への合格祈願のため二人で神社に行った夜のことだ。
「お二人とも仲良いですねェ」
回想から呼び戻され相澤が目線を上げると、編集者の彼が和やかに微笑んでいた。カメラマン、スタイリストも同じような、なんとも穏やかな表情でこちらを眺めている。男二人向き合って手を握っている姿を晒していることに気付き、相澤は飛び退いた。
「マイクさん、次のカットは髪アップにさせてもらってもいいですか?」
「マジ?! 流石にそれは俺も凍っちまうからシャツ襟付きのにしてもらっていい?」
いつも長襟にスピーカーだから首は弱くてさ、一発で風邪引いちまう、とマイクがスタイリストと話す。周囲の注意が自分から反らされたことに相澤が安堵すると、スタイリストの方を向いていたマイクが再びこちらを向いた。ふいに唇をなぞる、温かい親指。相澤は目を見開いた。
「あとさ、消太の唇少し塗ってやって」
「はい」
マイクの言葉に、スタイリストの彼女が血色を補う色付きのリップクリームを持ってやってきた。相澤は大人しくされるがままに任せながら、誰かに唇に何かを塗られる、というのは久しぶりだな、と思っていた。
中高の冬、かさついた唇をそのままに過ごしている相澤を見かね、マイクは時々リップクリームをくれた。自分の外見に関心が薄い相澤にとってかさついた唇にこまめにそれを塗るという習慣はなじめるものではなく、もらったもののポケットの重しにしていたが。それをマイクが取り上げ、「まぁお前が自分で使うわけないとは思ったよ…」などと言いながら相澤の唇に時折塗っていた。自分の唇がかさついたり、切れたり。それ自体は相澤にとってどうでもいいことだったが、面倒そうにぐりぐりと塗りたくる世話焼きなマイクの表情が嫌いではなく、されるに任せていた。
外国人の女性モデルが一人合流し、一行は最後の撮影シーンである歓楽街のカフェバーに行く。貸し切りとはいえカウンターだけの狭い店内。女性モデルとマイク二人の撮影だったので相澤は店の外で編集者と共に待っていた。
オールバックで一房まとめた金の髪が背に落ちる。マイクが来ているのは形を少しカジュアルに崩したスリーピースのスーツだ。相澤の位置からは白と黒のチェック柄に見えるが、千鳥格子らしい。
「日本人には鳥が連なって飛んでいるように見える柄ですが、海外では犬の牙に似ているからハウンドトゥースって呼ばれてます」
編集者の彼が披露した豆知識に相澤は、はあ、と相槌を打つ。
「あのスーツも日本人だと個性が強すぎて格好良く見せるの難しいんですけど、マイクさん何でも着こなせちゃうから…」
「あいつの爺さんロシア人ですからね」
「ああ、やっぱり! クォーターってことですか」
学生時代、相澤も今は亡きマイクの祖父の写真を見せて貰ったことがある。碧の目に短い金色の髪。母にも姉にも発現しなかったロシア血統の外見的な特徴が、マイクになって現れたらしい。出会った中学の頃に百五十センチ半ばだった小柄な男は血筋もあるのか、いつの間にか相澤の身長を追い越した。
「マイクさんとはお付き合いが長いんですか」
「お付き合い…」
まるで交際しているかのような聞き方だ。しかし突っ込むのも面倒なので相澤は話を続ける。
「中2の時、転校した先にマイクがいて…」
相澤は白い息を吐く。ホッカイロのおかげで体は温かいが日が落ち寒さが本格化した夜の冷気は呼吸のたびに肺を冷やした。
バーのドアの丸窓の向こうでは女性モデルがカクテルのチェリーを摘みマイクに向かって身を乗り出す格好で食べるよう迫っていた。女に迫られる困り顔の色男の構図。大人びたバーを背景にした二人の写真はどこか笑いを誘う気取らないものになるらしい。女性も同じブランドのグレーのスーツで、ジャケットは裾が短く下襟が丸い可愛らしい遊びのある形だ。ただし素肌に羽織っているので黒いブラトップに包まれた豊満な胸の谷間が晒されている。彼女の腰を絞ってすらりと落ちるスラックスの下に覗く黒のピンヒール。マイクが視線を傾ければ彼女が赤い唇で微笑む。夜の愉しい遊びをすべて知りつくしたような男女の対面図が出来上がっていた。
◇ ◇
「おつかれーっす!」
マイクは車に乗り込むスタッフと女性モデルらの一団に声を張り上げ、さあ行こうぜと隣の相澤の背を叩く。
「良かったのか」
「何が?」
今から夜を共にするのがこの冴えない髭の男で。相澤は心の中でそう思ったが、口には出さずに隣を歩く。マイクはその胸中を知ってか知らずか、友の肩を強く抱いて笑った。
「クソ寒ィしお前随分冷えてるみたいだからもつ鍋でどう?この近くに美味いとこがあんの」
「悪くない。行ってやる」
「もっと可愛い言い方しろって!」
なんの説明もなく一日モデルの仕事をさせられたことを相澤はまだ根に持っていた。だから可愛げも何もないだろ、というのがこちらの言い分だが、マイクはもう忘れたらしい。親友としての甘え、気安さ。まだ酒も飲んでいないのに酔っ払いのように賑やかしく言い合いながら繁華街の路地を歩く。
鮮度の良いニラやキャベツと少し濃い味噌出汁で煮込まれた脂肪の塊、もつはぷるりと舌の上を滑り、とろけた。店に入るまではモデル業に巻き込まれたことに改めて文句を言ってやろうと思っていた相澤だが、鍋から薄く立ち上る湯気の向こうで目元を染め機嫌良く喋り続ける男を見ているとどうでもよくなり、プレミアムビールの杯を重ねた。奢りだし、これで勘弁してやろう、と。
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