『Ω解放戦線首領 首狩り義太郎』
俯きがちの痩せた男が黒目の細いトカゲのような大きな目でこちらを見ている。写真ではなく、目撃情報を元にしたイラストだ。政府やヒーロー協会の関係者の首を夜闇に紛れて次々と跳ね飛ばした彼は結局逮捕されることがなかったため、写真が残っていないのだ。
(執念深そうな顔…)
心操はぎょろりとした鋭い目つきを向けてくる男が描かれたページを指でなぞる。まだ午後の授業が続く雄英高校図書室の閲覧室はほかに生徒がおらず、静かだった。雄英ではΩ差別やその差別で起こった争いを教える授業があるため関連の蔵書が多く、心操がΩ解放戦線の首領について資料探しをするのに良い場所だった。
昔の人物なだけあって、首狩り義太郎という通り名も少し時代がかっている。心操はイラストの横に書かれた解説に目を通した。
『Ω解放戦線の首領。政府やヒーロー協会の関係者を深夜に襲撃し、手鎌状の武器で首を切り落とすことで十六人を殺害した。さらに各機関に爆弾や火炎瓶を投げ込み、施設の破壊を行った。消息不明。個性は持っていなかったとみられる』
やはり本人が捕まっていないため情報が少ない。その穴埋めをするように次のページから彼が起こした事件の当時の新聞記事が載っている。
『◆防衛政務官が死亡―「首狩り」被害者止まず』
『◆ヒーロー協会が一部焼失―Ω解放戦線「天誅」と犯行声明』
白黒写真に写る半分焼失したヒーロー協会は、サイズ的には普通の民家と見間違えるような二階建ての小さな建物だった。高層ビルを構える現在の姿とはまったく違う。
記事にある当時は、まだ一部の人間にしか個性が発現していなかった頃だ。それを悪用して盗みや脅迫をする者たちを、同じパワーを持つ正義感の強い者やただ喧嘩をしたいならず者が制圧していた。まだ「ヴィラン」という言葉も「ヒーロー」という言葉も根付いていなかったころ。ヒーローの元になった人々は個性を悪用する者たちに対峙するため徐々に寄り合い、今の協会の元を作った。アメリカから「ヒーロー」という概念が輸入され定着したのはその後だ。
αは優秀でΩは落ちこぼれ――。露骨な差別社会が、ヒーローが活躍する華々しい超常社会に変化した時期。その後、バース性による差別はいつの間にか過去のものとなった。
(無個性か…)
心操は首狩り義太郎の情報をもう一度見返す。犯行手口は今回のヒーロー殺しに似ているが、仮に彼がまだ生きていたとして個性を持たないのにビルボードチャート上位のプロヒーローに勝てるだろうか?
(ふいをついて?)
役所を出た政府関係者らを待ち伏せて襲った、と古びた新聞記事は推察している。彼は確かに息を潜め、何時間でも暗闇で意中の人物が通りかかるのを待ったのだろう。残虐なクーデターで社会にΩの怒りを示すことで現状を変えられると信じ、仲間達の期待を背負い、目をぎらぎらと光らせながら。
「うーん……」
しかし彼を容疑者として認定して捜査を行うにはピースが足りな過ぎる。彼の若い部下や残党の情報があることを心操は期待していたが、それもなかった。いずれにせよ『解放戦線、怨念の復讐』説はまだゴシップが書き立てるねつ造ストーリーの域を脱しない。
心操は深い溜息を吐き、壁の時計を見る。そろそろ警察に向かう時間だった。
警察は脱獄したオールフォーワンが犯行に関わっているとみて捜査を進めているが、彼らのアジトが分からず足踏みしている状態だ。長らく進展がない状況を見て、心操は半分外部の人間である自分は別の視点で容疑者を探そうと思ったのだ。しかしトップヒーロー達に抵抗を許さず殺害できる人間はそう浮かばない。
心操はとりあえず首狩り義太郎についてのページをまとめてコピーすると、図書室を出た。
◇ ◇
心操が廊下を歩いていると窓から外の演習場の様子が見えた。頭のてっぺんからつま先まで黒ずくめの教員は目立つものだ。模範演習をする相澤の動きの鮮やかさ、自分にはまだ追いつけない捕縛布をたぐる手さばきに見入る。
自分をヒーローに押し上げてくれたのは相澤消太だ、と心操は思っていた。指導の恩返しにサイドキックとしてヒーロー、イレイザーヘッドを支えたかった。敵のアジト殲滅や潜伏からの奇襲作戦など相澤には難易度の高い仕事の依頼が多く来ているが、教職の傍らすべての依頼に応えられないでいるのを知っていた。彼は事務所を持つ主義ではないのでその膨大な仕事にまつわる事務作業が常に滞りがちなことも。相澤と同じ仕事はまだ出来ないかもしれないが、自分がサイドキックになれば依頼でも事務作業でも色々と手伝えたはずだ。相澤もそれは分かっていただろう。だが彼は心操をサイドキックにすることを望まなかった。
『よそで色々吸収した方がいい、お前はもっと可能性があるよ』
『俺が教えられることはほとんどこの在学中に教えたよ』
そんなことない。そんなこと、ないです。俺は…、心操は心の中で何度繰り返しただろう。
彼の教え子の中では自分が特別近しい距離にいることを心操は理解していた。だがいつも隣を歩くあの男のようにはなれない。そう思う度、胸が苦しさでぐっと押し上げられた。
去年の初め。
『なんだ…聞いてないぞ』
雄英の教師として採用が決まったことを打ち明けた時の相澤の第一声。彼は少し驚き、僅かに寂しそうにした。心操はその瞳に映った微かな哀色にいい知れぬ興奮を抱いた。
『…ちゃんと決まってから言おうと思ってましたから』
相澤は何かもの言いたげにしたが、結局『そうか。おめでとさん』と愛弟子の背を叩き、その日飲みに連れて行ってくれた。
師匠でもあり雄英の現役教師である相澤に伝えていなかったのは、心のどこかに後ろめたさがあったからだ。師に憧れ、いつか教師をやってみたいという気持ちがあったのは事実。ただ、それ以上に学生時代と同じかそれ以上に『昔みたいにこの人のそばにいたい』という子どものような欲求があった。自分の浅はかさを、相澤に気取られたくなかった。ずっと遠くから憧れ眺めていた、黒い二つの背中。それぞれ違う教室から出たのに吸い付くように職員室へ連れ立って戻っていく相澤とマイクの後ろ姿が、学生の頃から焦げ跡のように心操の胸にこびり付いていた。
「恋だね」
心操は飛び退いた。窓の前を離れ、2、3歩ステップを踏むほどに驚いた。恋敵――もとい、プレゼントマイクの登場に。気配を消していたのだろうか、彼は音もなく心操の斜め後ろにいた。
「びっくりした…急に何です?」
「いいや? 熱心にイレイザーを見てるからさ。可愛いもんだなと」
形の良い、人より少し大きい唇が目の前で笑みを作る。心操にはそれが挑発的に映った。
「同性婚もとっくに認められてる時代だ、隠すことないんじゃない? それにあいつクソ鈍いからはっきり伝えなきゃ分からねえぜ」
「俺はイレイザーのことを純粋に尊敬してます…今も、指導方法を見てただけだ」
向けられる警戒感を含んだ鋭い視線に、マイクは笑んだままの口元を撫でた。サングラスの下で何を考えているのか心操には測れない。ふいを突かれたせいで隠しきれない自分の動揺が、ダークカラーのレンズに反射していた。
「…お前がいつも俺達の後ろ姿を見てるのは知ってるよ。昔からずっとな」
心操は頬を染めた。羞恥ではなく激高だった。――なぜ突然この人はこんなことに踏み込んでくるんだ?――個性上ポーカーフェイスの練習はしているが、余裕のある表情を保てない。抑えきれないものが腹のうちで噴き上げていた。
「若輩の腹を探って面白いですか。…あなたはイレイザーをどう思ってるんです」
自分の中の冷静さを総動員して心操は詰問した。お前が踏み込んだのだから答えるまで逃がさない、と。
たしかに心操は並んで歩く二つの背に憧れていた。だが、不可解さに僅かに苛立ってもいた。なぜプレゼント・マイクは相澤消太に手を伸ばさないのか――。
「俺はあいつの隣を歩いてられりゃそれで満足だよ」
ランチに食べたメニューを話すのと同じ程度ののどかな口調。薄暗いレンズの奥の瞳は覗けない。
「そん代わり、生きてる限りこのポジションは誰にも渡したくないと思うがな」
はるか昔から腹の中で決めていることであるというように、マイクは穏やかに言った。
「『親友』という関係性が変わるのが怖い…ということですか」
「踏み込むねェ」
最初に踏み込んだのはあんただろう。心操は内心で思う。マイクは天井に放った軽い笑いを収めると、
「関係が変わるのが怖いのはお前じゃないの? Bro」
棘々しい空気を散らすように心操の肩をポンとたたき、歩いて行った。袖口の香水の匂いが鼻につき、心操は眉をきつく寄せた。
高校時代からずっと、心操はプレゼントマイクに対してうまく言葉にできない引っかかりを覚えていた。明るく賑やかしいが意外と気遣いのできる男――周囲の多くが彼についてそう思っていただろう、心操も例外ではない。ただ、この人は本心を隠すことに長けている。何かを、隠している…心操は漠然と感じていた。今こうして心操が秘めた思慕をつつき回した嗜虐性が、彼が隠していた本性の一端なのではないか。
と、ゆっくり遠ざかっていく足音が止まり、振り向く気配がした。ああ、そーだ、というわざとらしい開口文句。
「お前がここに来てからあいつ昼飯ちゃんと食うようになったよ。お前がすぐ真似るからって」
ありがとな、と静かな廊下に皮肉を落として去って行く男に、心操は顔を歪めた。もう表情を殺す必要がなかった。
◇ ◇
心操は早足で警察本部に入る。先程雄英の廊下で体験した苦い気持ちは仕事に没頭し忘れることにした。数年前に改装したというL字にそびえる15階建ての建物は、防災・防火薬類仕様になっているらしく壁が厚い。予算の関係上天井が少し低く設計されてしまったため、心操も初めて来た時は上下左右からのずっしりした圧迫感を居心地悪く感じたが、今はもう慣れた。特別に支給して貰っている職員証をかざしてゲートをくぐれば、そばに立っていた警備係の警察官が頭を下げた。以前は入館のたびに呼び止めてきた彼らとももはや顔なじみだ。
警察本部の刑事部はすべて同じフロアにある。殺人・凶悪事件を担当する一課の前を通ると、白い両開きの重い扉から若い課員の男が飛び出してきた。寝癖がついたままの彼は書類を持って小走りで奥へ向かう。一課というのは大抵いつも忙しいが、『ヒーロー殺し』探しがそれに拍車をかけているようだった。
角を曲がって二課の前を通る。詐欺や汚職を追いかけるこの課も平常通り深夜まで作業をしているのだろう。そう思いながら心操が歩いていると、白い廊下の向こうから目当ての人物の片割れがやってきた。どれだけ忙しくてもいつも不思議と綺麗な毛並み、相手をじっと見返す冷静だが愛くるしい瞳。
「三茶さん。お疲れ様です」
「やあ心操さんお疲れ様…失礼」
心操の向かいで足を止めた三茶はひとつあくびをし、申し訳なさそうに手で口を抑える。
「すまないね、君の顔を見たら安心してしまったみたいだ」
「いえ…」
いつも行儀のいい表情を作っている三茶が、頬周りの毛をふっさりと脹らませ口を大きく開ける愛嬌のある仕草。心操はレアな彼のあくびを目の当たりにできたことに内心ガッツポーズをしていたが、平静に務めた。『ヒーロー殺し』探しの捜査本部は彼と塚内の属するヴィラン特別対策課が率いている。捜査の長期化に疲れが溜まっているのだろう。
「あの、塚内さんは」
「また記者に捕まってるよ。別の事件のレクで記者を集めたのに、矢継ぎ早に『ヒーロー殺し』の質問が飛んできてそのまま…」
いま話せることは無いっていうのにね、と三茶はくたびれた表情をする。
「それに海外のゴシップ誌からも電話がひっきりなし。彼らは『切り裂きジャック級の猟奇犯の再来だ』って面白がってる」
心操さん英語喋れたっけ?と疲れた目で見つめられ、心操は言葉に詰まる。英語も一応ひと並みに履修しているが、海外のメディアにそつなく対応できる自信はない。頭の片隅に今日の午後にやりあった英語教師の顔が浮かび、心操は話を本題に戻した。
「逃走経路についてもまだ何も出てきませんか」
「出てこないね。現場周辺の防犯カメラを広範囲に洗ってるけど…やはり黒霧なのか」
人間の首を抱えたまま痕跡を残さず長距離を移動することは不可能だ。オールフォーワンに連れられ脱獄した黒霧が犯行の手助けをしているとみるのが普通の考え方だろう。だがヴィラン連合のアジトも掴めず、実行犯の具体像も浮かんでいない。
「Ω解放戦線の首領かその残党が関わってるんじゃないかって線はその後どうなりましたか?彼らが連合に協力している可能性も十分あると思いますが」
「あれね、無しになった」
三茶の答えに心操は目を見張る。先日はその可能性も探っていた筈だ。
「Ωは一般的に短命だからそんなに長生きしてるとは思えないからね。わざわざ捜査員を投入して調べさせるほど現実的な筋じゃない、って結論になった」
首狩り義太郎みたいな男なら執念深く生きててもおかしくない、って冗談交じりに話しはするんだけどねえ、他に調べることもあって捜査員が疲弊してることを考えるとなかなか…、三茶は頬のふっさりした毛を掻いた。心操は少し落胆する。
「…でも、Ωも全員が短命な訳じゃないですよね。残党だっている可能性がある」
「αとつがいにならないΩは若くして命を落とす。首狩り義太郎がどこかのαとつがいを持ってたらまだ生きている可能性もあるが…しかし彼の思想的にあり得るかね?」
Ω解放戦線のスローガンは『差別的バース性からの解放を』だった。彼はαが社会のエリート層を占め、生殖でも優位を握ることに憎しみを抱いていただろう。当然、仲間達も。とすればαと交わって生き延びる筈もなく、確かに三茶の言うとおりだった。心操は肩を落とす。
「ま、色んな筋が現れては消える…捜査は無限の徒労の繰り返しさ」
三茶は自分にも言い聞かせるように心操にそう言葉をかけると、肩を叩いてそばの喫茶店に誘った。漫画を沢山揃え、味が少し濃いナポリタンが美味しい家族経営の昔ながらの店だ。塚内が若手の頃からの行き着けで、恐らく彼もくたびれた顔で後から合流してくるのだろう。
心操、この後時間あるか?と相澤に声をかけられたのは翌日の夕方のことだ。『ヒーロー殺し』のことで悶々と悩んでいた心操だが、顔を明るくし「むちゃくちゃ暇です」と即答した。
「思ったより女性も多いんですね…」
「そうだな」
3月14日ホワイトデーを目前に百貨店の売り場は若い男女で賑わっていた。友人同士での交換が根付いたせいか、同性カップルが増えたせいか、かつて男性の為の催事だったはずのささやかな売り場は二人が想像したよりも女性客が多く、面積も広くなっていた。
「ちなみに、予算は」
「一人五千円まで」
「それは…随分奮発しますね」
「マイクから金を預かってる」
なるほど、と心操は頷く。その額であれば最も審査が厳しそうなミッドナイトが満足するお返しを買えるだろう。彼女が2月14日に男性職員一同あてに置いたのは案の定当たれば股間が三日間鎮まらないというロシアンルーレット媚薬チョコ。誰も手を伸ばさなかったために強制的に一人ひとつ配布されたそれを、口をつけずにそっと供養したとはいえ、受け取ってしまったことには変わりない。3月9日の卒業式でヒーロー科の教員は休みに入るため、お返しはその前に渡さなければいけなかった。さもなければ休み中の14日、彼女の自宅にお返しを献上しにいくというさらに命の危険が伴うミッションに臨むことになる。
「ご試食どうぞ」
はるか遠くのフロア端まで並ぶショーケースの前を進むたびににこやかに差し出される手。スフレチーズケーキ、オレンジピールのチョコレート漬け、桜風味のクッキー、苺のホワイトチョコレートディップ…断り辛さに相澤が勧められるままに受け取ると、心操もそれに続く。一口一口は小さいが、上質なれどまったりとした動物性油脂と砂糖が着実に腹に溜まっていく。
「…口が甘い」
「そうですね」
「どれかいいのあったか?」
相澤の問いに心操はう~んと唸る。色々食べ過ぎてもはやよく分からない。元々甘いものには疎い方だ。
「ミッドナイトさんの好みってどんなものでしょうかね」
「あの人の好む物はこんな健全な場所にはないだろ」
「まあ…」
それを言えば元も子もない。相澤の言わんとすることは、だから無難なものであれば何でもいいだろう、ということで、それには心操も賛成した。二人は人混みに少し疲れた表情で少し先まで視線を走らせる。
「あ」
心操が指さす先。一つ向こうのショーケースの中で猫の形のチョコレートが箱に詰まっていた。ビター、ミルク、キャラメルの三種三色がミックスされたそれはチョコレートの形だけでなく外装も洒落た柄が描かれている。
「…これがいいな」
「これがいいですね」
ガラスを覗き込み、息の合った二つの頷き。二人の視界に入るものは他になかった。
◇ ◇
ほろ苦い珈琲を口にし、ほっと一息吐く。猫チョコレートの箱が入った袋を手にした二人は、デパート上階のご婦人方が談笑する品のいい英国風喫茶に少し気後れしながら腰を落ち着けた。もっと気疲れしない店を探したかったが、足がくたびれていた。
「プレゼント・マイクは仕事ですか」
コーヒーの満ちたカップを置き、心操は尋ねる。正直昨日の午後のやりとりがあったので今は顔を合わせたくはなかった。一方で彼が相澤と自分を二人きりで買い出しに行かせたのは意外だったのだ。
「今日は用があるらしい」
「へえ…ラジオの仕事ですかね」
「ラジオは今日じゃないから違うと思うが…墓参りかもな。毎月行ってる」
相澤も用事の詳細は聞いていないようだった。
「墓参りって…どなたかご同期の?」
「さあな。俺も知らない」
相澤は答え、深煎りの珈琲を一口飲む。
ヒーローの殉職率は高い。同期や先輩、後輩を亡くすことは珍しくなく、ヒーローによっては自分が救えなかった市民の墓を命日の度に訪れる者もいる。あまり深入りするべき問題ではないのだ。心操は話題を変えた。
「なんていうか…先生でも知らないことあるんですね。プレゼント・マイクのこと」
「なんだそれ。結構あるよ、あいつ友達がいのない奴だから」
「へえ…」
「思ってることは全部顔に出るように見えてそうでもないしな…」
意外だった。心操から見てプレゼント・マイクはどこか腹の底が知れない男だった。しかし相澤にとってはそうではないのだろう、と漠然と思っていた。
「失礼します」
穏やかな声がかかり、ウエイターが二人の座るテーブルにハート型のチョコレートが二つ載った小さな皿を置く。
「当店只今ホワイトデーフェアでお二人連れ様にサービスしております。よかったらどうぞ」
黒いボーイ服に身を包んだ彼は、薄紅色に光る二つのハートについて、ホワイトチョコレートにラズベリーを練り込んだものです、と説明しにこやかに去って行った。相澤と心操はしばし沈黙する。
「…カップルと思われたみたいだな」
「そうですね」
同性婚が一般化した時代だ。ホワイトデー間際の夜に仲良く茶を飲む二人が誤解をされてもおかしくはない。チョコレートの右端には、点線で噛み跡が描かれている。
つがいの証としてαがΩのうなじを噛む風習があるので、それを表したものだろう。結婚式で指輪を交換するのと同じように、うなじを噛むという行為が愛を象徴するアイコンだと捉えられる時代になっていた。
心操は俯きながら、内心では胸を高鳴らせていた。ピンク色のハートを摘まみ上げじっと見つめる相澤のどこか眠そうな表情の乏しい顔。平常心でチョコレートを口にできる気がせず、心操はテーブルの下で拳を握り黙っていた。
「好きな人いるのか、お前は」
「え」
ぎくりとする。チョコレートを咀嚼した相澤は甘さに眉をひそめ、珈琲に口をつける。その瞳には戸惑って固まる青年の顔が映っていた。
「…悪い、セクハラだな。ちょっと聞いてみただけだ。俺と一緒で仕事ばかりしてるように見えるから」
「あ、ああ…」
心操は沈黙した。頬にじわりと血の気が滲むだけで、何も言えなかった。相澤は心操の沈黙をどう捉えたのか、空気を軽くするように口元を微笑ませて続けた。
「お前が雄英で教師やること事前に教えてもらえなかったの、まだ根に持っているのかもな…」
心操が師に対して秘密にしていたことを、相澤は水くさいと思っていたようだ。彼の言葉を素直に解釈すれば、少し、拗ねてもいた。心操の胸が沸き立った感情で熱くなる。相澤はコーヒーを一口飲み、言葉を続けた。
「まあせめてそういう段になったら結婚式には呼んでくれ。芸はできないが月並みの祝辞くらいは読める」
心操は何も言えずにいたが、しばらくして口を開いた。
「先生は…好きな人とか、恋人とかいないんですか」
相澤は自分にそんな質問が飛んでくるのが意外だったのか少し眉を上げると、純朴に問うた少年をどこか気の抜けた優しい眼差しで見返す。
「俺はそんなに器用じゃないよ。飼いたくても猫一匹飼えないんだ、恋人なんてな」
という言い方をすると人間の女性に失礼かもしれないが…、と付け加えたので心操は思わず笑った。幸せにできないので猫は飼わない、恋人もつくらない。相澤らしいシンプルな答えだった。
「それにいつ死ぬかわからない」
静かに言い終え、相澤はコーヒーを啜った。ヒーローにとしては珍しくない死生観。だが、一連の言葉を直接相澤から聞けたことで、心操の腹の奥底で長年つかえていた、サイドキックにしてもらえなかったという感情の淀みが少し軽くなった気がした。
――この人はたぶん、誰とも一緒にならず人の為に生きて孤独に死んでいくのだ。それを、良しとしている。
心操は唇をぎゅっと引き結ぶ。
相澤消太は誰もが見向きをする分かりやすい魅力のある男ではない。たとえば、色彩豊かな絵画の美術展示の端にぽつりとある少し地味な木彫りの彫刻のような。触れれば年輪を重ねた堅さの向こうに、温かみとそのうちに眠る生命の厳かな気配を感じることができる。心操はそんな相澤を心から敬愛していた。
ヒーロー業を引退し一人余生を送る彼を気ままな野良猫は癒やすだろうか。自分は彼を見守る唯一の人間としてその光景に佇むことができないだろうか。できればいいのに。心操は俯いた顔を上げた。
「俺は、先生のそゆとこ好きです…」
「? なんだ急に。…ありがとう」
きっと気持ちは百分の一も伝わっていないのだ。心操は黙り込む。腹のうちからせり上がってくる暗い憧憬。伝えたいが、伝えてはいけない気持ちが喉奥にまでせり上がっていた。恋人はいらない、と言ったばかりの人間に俺は何を言おうとしているのだろう。心操はコーヒーカップを持ち上げ、ほろ苦い液体を喉に通して息を吐く。話題を変えよう、と意を決した。
「…プレゼント・マイクは恋人いるんでしょうか」
「あいつはたまに彼女作るが長続きしないな。結婚も考えてないようだし」
「へえ…」
「俺と同じで不器用なんだろ。あいつの場合は器用貧乏っつうかな…」
相澤は少し考え深げに顔を撫でた。このマイク評は心操にはあまり共感できないものだった。ヒーロー、教師、DJの三足のわらじを履きこなし、誰とでも流ちょうなコミュニケーションが取れるマイクは心操から見れば器用そのものだった。
◇ ◇
(仲良いな、あの二人)
心操と駅で別れた相澤は夜の町を歩きながらそう思った。なんとなく、人と荷物で雑然とした電車に乗り込む気分ではなかった。昨日の午後も授業中、視線を感じ校舎を見れば廊下でマイクと心操が話し込んでいるのが見えた。
(まさか)
『…プレゼント・マイクって恋人いるんでしょうか』
先ほどの心操の質問が耳に蘇る。何かもの言いたげな、戸惑いを含んだ雰囲気。どこか熱っぽい目。相澤はひらめいた。
(あの二人、好き合ってるのか…?)
まさか、とは思いつつ、どこか腑に落ちる部分があった。心操はマイクのことでたまに皮肉を言うが、心の中では尊敬しているのを相澤は知っている。それにマイクと二人で歩いているとき、ふと振り返ると彼があわてて目をそらすことがあった。マイクを見ていたのかもしれない。
マイクは昔から『あいつお前に似てるよな』とたびたび漏らしていた。言葉通り相澤の若い時に似ているので面白がって干渉しているのかもしれないが、相澤から見れば特別可愛がっているようにもみえた。
(いや待てあいつは女が好きな筈だ)
酒を片手にマイクから聞いたのは華々しい外見や職業の女性たち。男が好きだとか、そう感じさせるそぶりを今まで一度も見せたことがない。相澤はなぜかほっとする。
(…だがカモフラージュって可能性もあるか)
αとΩの同性同士による事実婚が増え、政府はしばらく前に同性婚を合法にした。しかし人の性なのか、未だに同性愛への偏見は残っている。メディアで『親友に警戒されるのが怖くて同性愛者だと打ち明けられない』という話も観たことがある。
相澤は足を止め、アスファルトの濁流からふと目を上げる。ライトアップされた看板に、まさに胸中にあった男がいた。
夜空を背景に束ねた金の髪を靡かせ黒いファーのコートを羽織り、その腕に男にしては華奢な腕時計を嵌めている。海外の時計ブランドの広告だった。マイクは専属モデルを勤めるあの雑誌以外からも声がかかるらしい。カジュアル寄りのあの雑誌での雰囲気とも、普段の姿とも全く違う印象に目を奪われる。
生徒に最近聞いた話ではモデルとしてのSNSのフォロワーも3万人もおり、男性ヒーローの中ではファッションアイコンの一人になっているらしい。すべて相澤が知らなかった話だ。毎日顔を合わせ、いつも隣を歩いているので、なんだかんだ言ってこいつのことは俺が一番よく知っている、と思っていた。
(言えよ…)
口数が多い割にマイクは肝心なことを話さない時がある。この間もつ鍋をつつきながら、お前がモデル業やってることについてもっと事前に話しておけ、と文句を言った。「だってお前ファッションに興味ないじゃん~」と唇をとがらせ返されたが。確かに、話されたら話されたで右から左に流しているであろう予感はある。でも、聞かないわけじゃない。
ふいに携帯が震える。相澤が画面を開くと、マイクからのメッセージだった。
『お疲れさん。お返し無事買えた?』
気遣いのマメな男は買い物を任せてしまったアフターフォローのつもりで送ってきたようだ。相澤は画面を暫し見下ろし、結局返事を打つことなく携帯をポケットにしまい直した。アスファルトを歩くだけでは心のうちの何かが収まらず、少し夜風を吸おうと電柱を駆け上った。3月初旬の冷たい風は肺を満たしたが、相澤の中でモヤモヤと燻る何かを沈めてくれることはなく他人行儀に鼻から抜け、消えていく。月は細く、暗い雲が流れると時折細い光が垣間見えるが、それも一瞬で消えてしまう。
(あいつみたいだ)
山田ひざしはその名の通り太陽のような温かさを持った男だ。本人も昔からそう振る舞おうとしていたように思う。一方で、いつも何かを腹のうちに秘めて隠しているようにも見えた。柔肌を暗い陰で覆い隠した新月のように。
その隠しごとに、同性愛者であるという事実があってもおかしくない。
(それならそれで、受け止めるだけだ)
今まで通り親友として。たとえマイクが誰を好きであろうと、ただそれだけのこと。
そう思いながら相澤は自宅とは別の方角に足を蹴り出した。
夜空の下の回り道の末。さきいかとミニサイズの日本酒が入ったコンビニ袋を手に相澤が自宅に帰宅したのは日付が変わる頃だった。ほぼ飲み干して軽くなった缶ビールを口で咥え、アパートの古びたドアの鍵を開ける。その瞬間、またポケットの中の携帯が震えた。
『寝ちまった? 何かあった?』
マイクが相澤に似ていると面白がっていたふてぶてしい顔の黒猫スタンプがおまけに付いてくる。既読を付けただけで先ほどのメッセージに返事を返さない相澤を不審に思ったのだろう。何か心配してのことかもしれない。相澤はしばらく画面を見つめてから、返事を返した。
『猫のチョコ買った。心操はちゃんと帰したぞ』
送信と同時に既読マークが付いて暫く。いつもきちんと読んだのかと思うほど返事の早い男が、数分を要した後返してきた。
『そりゃ何より。猫チョコは予想通り!センキュ』
(『そりゃ何より』)
相澤は画面を眺めたまま、固いシングルベッドの上に酒が回って少し重くなった手足を投げ出した。そりゃ何より、心操を無事で返してくれてよかった…マイクの心の声を勝手に補足し、相澤の胃がギュッと縮んだ。同時に、一体なぜ俺はこいつのことでこんなに考え込んでいるのだろう、と馬鹿らしくなった。八つ当たりに似た怒りがふつりと沸く。
『お前いま暇か?』
素早く打ち込んだメッセージに付く既読。やはり返事には数分を要した。
『何?』
相澤はそのまま通話ボタンを押す。自分に不似合いな面倒な思考ははるか彼方にぶん投げた。マイクは出るのを躊躇っているのか、出たくないのか。相澤が通話を諦めようとした六コール目でようやく聞き慣れた声が鼓膜を打った。
『グッドイブニング…どうしたよ、お前から電話なんて珍しいな』
何かあったのかと探る声色。相澤はどうでもいい日常会話から切り出すべきかどうか瞬時に考え、やめた。
「お前、いま好きな奴はいるのか」
『はァ?』
受話器の向こうでしばし沈黙が流れた。まるで絶句しているような。図星を当てられ驚いているのか、あるいは。相澤が息を潜め答えを待っていると、受話器の向こうから躊躇いながら何かを言おうとする呼吸。耳を澄ませた、その瞬間。
ドン…となにか激しい爆発音が聞こえ、突然電話が切れた。
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