とろける檻~ポリネ・シアン・セクゥース島での9日間~(既刊マイ相)サンプル

hrakマイ相

yogiさんにお表紙を頂戴しました!

ひざしょ本「夏飴すくい」の続編で2018年3月に発行した南国ポリセク本です。書きながら自分もこの世界にいられて楽しかった…
熱いお言葉やお感想絵を頂き思い出が沢山ある個人的に大事な本です。読んでくださった方、好きと言ってくださった方、本当にありがとうございました…!
また気が向いたらページを開いて遊びにいってやって頂けるとうれしいです😊おいでませポリセク島

 

 

 

(※サンプルの転載なので序盤のみです。物語の軸となるネタバレがあるのでこれから手に取るご予定の方は読まないことをおすすめします)

Day1

 

 

――君もたまには休まないとね!
頬にムニと押しつけられたピンクの肉球。急になんです、と肩に乗った白い生き物を見れば、航空券と十日間の職務離脱を言い渡され、気付けば南の島にいた。夏休みの終わりに、十五年来の付き合いの男と共に。

「どういうことなんだ?」
「え?まだその話してんの?」

マイクは碧色の目を丸くしたが、クリーム地のゲストカードの上に細い万年筆を滑らせ消太の疑問符を受け流す。七時間前に成田空港で落ち合った時から繰り返される問いを、もはや真剣に相手にする気がないようだった。笑顔でそのサインを確認したフロントマンはカードキーをマイクに渡し、これから九泊十日滞在するホテルのチェックインは消太の疑問を置き去りに完了してしまった。
「そりゃ俺も急に校長から航空券渡されて相澤くんと休めって言われただけだからなんだか分からねーけど。難しいことはイイんじゃねーか?校長のポケットマネーでこんな豪華な六ツ星ホテル泊まらせてもらうんだしさ」
そう言ってマイクは高く開放感のあるロビーの天井を楽しげに眺めた。確かにその横顔は本当に何も聞かされていないように見えるが、消太は疑心は晴れない。『USJ襲撃から体育祭、林間合宿と仕事続きでお疲れだろうから』、と校長は言ったが、仕事が激務だったからといって今まで褒美に海外旅行に行かされた職員などいなかったはずだ。
(訳がわからん…)
ホテルマンに先導されながらむずかしい顔で歩く消太に、女性スタッフが紅色の唇でにこやかに笑いかけ、ウェルカムドリンクだとココナッツジュースを渡してひらひらと手を振った。
やけにボタンの少ないエレベーターを降り、部屋に案内された消太は呆然とした。リビング、ダイニングキッチン、寝室と三部屋が繋がったような奥行きのあるスイートルーム。その広さに驚きはしたが、それ以上に消太が色を失ったのは部屋の最奥に見えるベッドがどう見ても一つであることだった。男二人に、寝床が一つ。
「ツインじゃないのか…?」
「ん?本当だ」
マイクは案内してきたホテルマンと英語で二言三言交わす。浅黒い肌に白い歯を見せて嬉しそうに応じたホテルマンが、デラックスハネムーンスイート、と答えたのが消太の耳にも入った。
「このホテル一のスイートルームだってよ。新婚夫婦向けの」
「何かの間違いだろ。変えてもらえ」
「エーこのままでいいだろ?校長の手違いかもしれねェけど六ツ星リゾートホテルの一番いいスイートよ?また部屋準備してもらうのもホテルの人に面倒かけるし」
「…ベッドはお前が使え。俺はソファで寝る」
「消太クン男前ー♪」
ヒュウ、と口笛を吹くマイクを無視し、消太はボストンバッグを部屋の隅に置いた。荷物は常に少ないので旅の疲労はないはずだが、それでもドッと疲れが襲ってきた。腐れ縁の友人兼同僚である男二人を、南の島の新婚夫婦向けスイートルームに押し込んだ校長の意図が見えなかった。
「いいねェ極上のオーシャンビュー!!」
消太の心労をよそに上がる浮かれた声。海側には大きなガラス窓が部屋の端から端まではめ込まれ、一面で海と白い砂浜を見渡せた。どの窓も開けばバルコニーに繋がる。すでに外に出ていたマイクの隣に立てば、潮と草木が混ざったやわらかな南国の風が消太の頬を撫でる。5階から見下ろす景色に遮るものはなく、白い砂に抱かれたエメラルドブルーの海が静かに、悠然と揺蕩っていた。
「浜に誰もいねーな…夏場なのに」
「プライベートビーチらしいから。この部屋の」
「プラ、」
「そ!俺たち二人のためのビーチ♡」

絶句する消太をよそにマイクが、あそこからあそこまで、と約一キロの砂浜の端から端までを指した。一方は密林、一方は岸壁に区切られている。
消太が思い起こせば、確かにこの部屋は他と離れた独立した別棟だった。エレベーターのボタンもこの5階とロビー階しかなかったことから考えると、棟内は最上階であるこの一室しかないようだった。
「いいね~。さっすがハネムーンスイート」
「…いよいよ男二人で泊まる場所じゃねぇな」
消太は呟いたが、この島、このホテルで九日間過ごさなければいけないという事実は変わりようもなかった。

さてとりあえずはメシ、とマイクが消太を連れて入ったのはホテルの近くにある東南アジア料理の店だった。壁側に置かれた丸いガラスの大鉢で熱帯魚が泳ぐ小綺麗なカフェ調の店内では、ランチタイムを過ぎ、観光客らしい若い白人女性3人組が花の飾られたタピオカをもの珍しそうに匙ですくっていた。
テーブルの上に置かれたメニューは分厚く、写真付きではあったが英語を解読するのが面倒なので消太はそれをそのままマイクに渡す。ぱらぱらと捲りながら、へー、とか、ふーん、とかひとり相槌を打つ横顔を見ながら、消太はふと、マイクと二人で飯を食うのは久しぶりだな、と思った。USJ襲撃があってから今日までの3ヶ月間、何度か飲みや食事に誘われたが、付き合えたのは体育祭の後一度か二度だった。それほどに、忙しかった。

「ぜってーパクチー入ってるよなこれゲェ…。写真が見るからに緑でモリモリしてる」
「はよ頼めよ。腹減った」
「んもーハイハイ。パクチーはイレイザーが食ってね、好きだろ」
「あんなもん葱とかミョウガとかと一緒じゃねぇか。薬味の一種だろ」
「お前のその雑な味覚が羨ましいとたまーァに思うぜ」

マイクはメニューを閉じると店員を呼び、オーダーを済ませる。消太はすっかり気の緩んだ表情をしている旧友の横顔を射抜くようにすうと目を細めた。

「…そろそろ吐いてもらおうか」
「ドキィ!な、何をよ?」
消太のドスの効いた声にマイクが目に見えて慌てる。
「急に校長のポケットマネーで突然海外行ってこいなんて怪しすぎる。今までなかった。本当の目的はなんだ?言え」
「考えすぎだぜお前は。ただの慰安、楽しんできてねって、そんだけだろ?我らがボスの百年に一度の粋な計らいじゃーん?!もっとイージーに考えようぜ」
「俺が内通者だと疑われてるのか?さしずめお前は監視役ってとこか。それかこの島で俺たち二人に何か特別なミッションがあるのか?」

消太が剣呑な目付きで尋問に本腰を入れたところで、パイナップルとオレンジの飾られたスカイブルーのカクテルが二つ運ばれてくる。丸い口の淵からこちらを向くピンクの蘭の派手さに気勢がしぼむ。マイクは上機嫌にグラスをカチリと合わせた。

「仕事に取り憑かれてんなイレイザー…この九泊十日で俺がその疲れを取ってやるからな。ってことでチアーズ♪」

マイクが消太を連れてきたのは平屋建てのスパだった。VISA、MASTERとカード使用可を示すシールの貼られたガラス戸を開け中に入ると、途端にレモングラスの香りが消太の鼻を撫でた。マイクがすでに予約を済ませていたらしく、黒くたおやかな髪をお団子に結った浅黒い肌の女性たちが二人を迎える。クリーム色の半袖の制服を着た彼女たちは、ミスターヤマダ、ウィーワーウェイティングフォーユー、と舌ったらずなたどたどしい英語と愛くるしい黒い目で迎えた。皆不思議と小太りの体型で、背が低く、見た目だけで愛嬌があった。
マイクがカードで支払いを済ませている間に消太が奥に目をやれば、スパの敷地は外観より広いらしく、奥に施術用の部屋が幾つかあるようだった。

「オ~ケ~カ~ム」
女性二人がまたあの甘い声色でマイクと消太を先導し、奥の間へ通す。籐の椅子に腰をかけるように促され、二人の足元に銅の洗面器が置かれた。
「…?」
「足入れんの」
不思議そうな顔をする消太に隣のマイクが答える。
「お前…こういうところ来たことあんのか?」
「スパ?海外出張ん時とかたまにな。いいぜ?疲れ取れるし気持ちイイし」

暢気な笑みを浮かべすっかりスパの空気に浸っている様子のマイクの横顔に消太は若干のむかつきを覚えたが、大人しく洗面器に足を入れた。人肌より少し温かい水が、消太の足をぬるりと包む。ただの水ではないようだ。消太が疑問符を浮かべるより早く、マイクが、ボタニカルオイルが入ってる、と答えた。

(落ち着かねえ…)
女性二人がマイクと消太の前にかしずき、桶に手を入れて足のマッサージを始める。彼女たちの年齢は二十代前半だろう。若い女性にこんな中年男の足を…、と消太は戸惑いで表情を固くしたが、彼女たちは丸っこい指で力強く二人の足を揉みこんだ。十分なマッサージと洗浄のあと、タオルで足を拭われた二人は次の間に通される。

「裸になれってさ」
8畳ほどの広さの施術部屋には、寝台が二つ並んでいた。ここもカップル向けに作られた部屋なのだろうと思い当たり消太は眉をひそめたが、マイクがひらりと掲げて見せたものにさらに渋面を作る羽目になる。
「ワ~オ…こいつはチープでトラディショナルな…」
マイクが指でつまんで淡い照明に透かしたのは、マッサージを受けるために全裸になった客の恥を申し訳程度に包み隠す紙のパンツだった。形は赤ん坊のオムツのように膨らみがあり、厚手だが触ればカサリと音がする、半透明の使い捨ての下着。半透明?消太は二度見した。
「隠せるものも隠せないじゃねーか」
「な…普通黒とか透けない仕様なんだけどなー。これは逆に恥ずかしいぜ。どうする?」
「…フルチンってわけにもいかねえだろ」
「確かにヒーロー兼教師が子女の前でフルチンはメチャクチャまずい」
仕方なく二人は服を脱ぎ、カサカサと音を立てながら紙のパンツに足を通した。示し合わせたように同じタイミングでくるりと振り返り、同時に噴き出す。窮屈そうに横たわる、柔らかく萎びたペニス。すね毛の生えた三十路の男が半透明のぶわりと膨みがちな紙のパンツを穿いた様は、出来損ないの赤ん坊のようだった。
「イレイザーは若い子泣きじじいって感じ。ハッハ!」
「お前はどう見ても変態の外人だな…」
お互い笑い合っていると、外から女性スタッフがドアをノックし、甘ったるい英語を響かせて入ってきた。

寝台の上でうつぶせになった二人の上に、それぞれ女性が一人ずつ乗り、マッサージを始める。照明が落とされ、時おり小鳥がさえずるヒーリングミュージックが無音の室内に流れ始める。寝台の頭部には穴が空いており、そこに顔を埋めるように言われ消太は戸惑ったが、やってみれば確かにその方が呼吸もしやすく楽だった。穴の下にはやはり銅の洗面器が置かれ、そこに花が浮いている。香油が垂らされているらしく、柑橘に似た爽やかな香りが慣れないマッサージを受ける消太の緊張を徐々にほぐした。
小柄な体から想像できない力で消太の腰から背中を揉み込んでいた女性が、英語で何かを喋る。え、と消太が聞き返すと、隣の寝台からマイクの声が聞こえた。

「お疲れですね、って。全身がすごい疲れてる、って言ってる」
「ああ…」
この三ヶ月、USJで重傷を負ったことも忘れ働きづめだった。生徒に教えるべきことは教え、学外のヒーロー活動でも求められる役割をこなしてはいたが、体に疲労は蓄積していたらしい。そう思えばこれはいい機会かもしれない。消太は思い出したように押し寄せた体の疲れを、力強い指の動きにゆだね、目を閉じた。

「最後に足つぼマッサージするって。痛かったら言ってほしい、って」
マイクの通訳に頷くと、仰向けの体勢にさせられ、熟練の指で足の裏を揉まれる。気持ちがいいかもしれない、と消太が気を抜いたところで、足の筋が吊りそうなほどの激痛が走った。
「だあっ…!イッテェ……」
USJで脳無にコンクリートに頭を叩きつけられた時でも悲鳴を上げた覚えはないが、気が緩んでいただけに強烈な指圧の衝撃は大きかった。マイクが隣でふはっと吹き出し、消太が叫んだ箇所をサディストのようにグリグリと押し続ける女性と二言三言会話した。
「眼精疲労。ここが痛いのは目が疲れてるってことだってよ。ケアちゃんとしような~消太クッ、ギャアアア!!!」
からかいの声が突然悲鳴に変わり、消太は顔を上げた。髪を逆立て個性を発動しかけたが、幸い全員の耳が無事であるところを見ればヴォイスの発動には至ってない。ただマイクが痛みに呻き、もんどり打っていた。ここまでのリアクションを返す客は珍しいのかマイクの足を揉んでいた女性もクスクスと笑いながら、英語で何かを話した。
「なんだって?」
消太が口元をニヤつかせながらマイクに尋ねると、泣きそうな声が返ってくる。
「肝臓が悪いって…イッテ、アッ、もっと優しくッ!」
「飲み過ぎだな」
「ウゥ、最近スゲー飲んでたか、ら!デェ!」
「節制しろよ」
返事の代わりに悲鳴が返ってきた。

海辺を散歩して、昼に食べ過ぎた分近くのカフェで軽い夕食を取ってホテルに戻った。昼は部屋から見える景色に気をとられていたが、落ち着いて見渡せばやはりホテル1のスイートルームは豪奢だった。大型テレビとソファ、キッチンを兼ね備えたリビングルーム、キングサイズのベッドのある寝室、艶やかに磨かれた大理石の洗面台が2つ並び入浴すればやはり海が見下ろせるバスルーム。すべてで2人ではもて余す広さの客室を構成していた。
「広すぎて落ち着かねー…」
「鬼ごっこでもする?」
「アホ」
「バカンスなんだしハメ外そうぜイレイザー」
いつの間にかミニバーからキンキンに冷えたビールを取りだし喉を潤していたマイクがベッドの上で上機嫌にいう。確かに百八十センチ台の男2人が多少派手に駆け回っても耐えられるスペースがあった。消太はマイクが寝そべっているキングサイズのベッドをちらりと見る。ふかりと柔らかい枕が6つ並んだその枕元では木工細工で装飾されたルームライトが控えめに光をたたえ、寝具の純白を照らしていた。
サイドボードには薄い花びらを幾重にも開いた白い花が飾られ、ふわと鼻腔を撫でる甘い芳香を振り撒いていた。たとえば、新婚の若い夫婦が濃密な時を過ごすのに適したような、清廉な空間。どう考えても可愛いげのない中年の大男2人が寝る場所ではないように思えた。
「…風呂入ってくる」
「はーい♪」
マイクの語尾は完全に浮かれていた。消太はボストンバッグから引っ張り出した着替えを手に風呂場へ向かう。
(あいつは何か隠してるのか?)
消太は服を脱ぎ捨てガラス戸を開くと、広々としたバスルームでシャワーのコックをひねる。湯は丁度いい熱さで、1日潮風と日を浴びた肌を洗い流していく。しかし消太の気は晴れない。バスルームの隅から隅まで見回してみるが、監視カメラらしきものもない。
(行動を監視されてるわけじゃないのか…)
隅に並べられたアメニティのシャンプーのミニボトルを無造作に手を取る。心地よい花の匂いが大理石で囲まれた一室を満たした。
(マジでただの慰労なのか…?信じられねぇが…)
国際犯罪捜査の手伝いかもしれないと、とりあえず自宅に転がっていたボストンバッグに衣類と寝袋を詰め込みやっては来たが。
(…まあいい、いずれ分かる)
自分が内通者だと疑われているならただ身の潔白を示すだけのこと。何かミッションがあるならただこなすだけのこと。消太はそう結論付け、泡を洗い流した。
思えばマイクと旅行に来たのは初めての気がする。十五年付かず離れずの、憎まれ口は叩けど一番気心の知れた相手とノンビリ休暇を過ごすのはお互い忙しいことを考えればこの先そうない貴重な機会なのかもしれない。

「お、出た?…ハハ、バスローブ着ねぇの?ルームウェアもあったけど」
「こっちのが慣れてるからな」
備え付けのバスローブではなく、日本から持ち込んだ少し襟口の伸びた黒のシャツとスウェットで。着慣れた部屋着に身を包みリラックスした消太が被ったタオルの隙間からマイクを見れば、大きな碧の目がくるりと好奇で丸くなっていた。その淵にじわりと滲んだ、何かの感情。旧来の幼馴染を懐かしむように細まり、唇は柔らかくゆるんでいる。
「なんだよ」
「イヤ、いやいや……想像通りやっぱ部屋着もダセェなーと思って。安心するよね、うん、お前の死んだ配色センス」
「うるせぇほっとけ。時代遅れのロッカーみてぇなコスチュームしてるやつが人のセンスにケチつけられる立場か」
「ヘーイ俺のファッションセンスにケチ付けるとはいい度胸だな?」
立ち上がったマイクが向かってきたので消太は構え、取っ組み合った二人は自然に相撲をとることになった。しばし拮抗し岩のように微動だにしなかった二人だが、まだ私服でベルトをつけたままだったマイクが不利だった。
金髪がふわりと浮き、広いベッドの上にマイクの体が重たく沈む。
「った~負けた…」
「また負けた、だろ。体育祭でもお前が負け越してる」
高校時代の体育祭では一年は消太、二年はマイク、最後の三年はやはり消太が勝っていた。歯を見せる人の悪い笑みを浮かべながら消太は寝転がったままのマイクの隣にどかりと腰を下ろす。

「お前って普段クールな顔してるくせにクソほど負けず嫌いだよな…生徒の前で冷静な大人ぶってるのが笑っちまうくらい」
「ヒーローが負けちゃならないだろ」
負けることは死を意味する。助けられなかった誰かの、あるいは自分の。だからヒーローは負けてはいけない。暗にそう返した消太に、マイクは苦笑した。そう言うと思った、と言いたげに、軽い鼻息が金糸を散らす。穏やかな光を抱いた緑の目が、消太の横顔に留まり、静かに伸びた指先が梳くように黒髪に絡んだ。
「髪乾かしてないじゃん」
「…ああ…別に、」
「自然乾燥でいいって?」
先回りされて奪われる言葉。マイクはふ、と微笑みの気配だけ残すと起き上がり、洗面所からドライヤーを持って戻ってきた。
「今回はお前の慰安旅行だしさ。マイクさんが特別に乾かしてやろう」
「自分でできる」
「いーから。天下のボイスヒーローが濡れネズミのケアするなんてないぜ?贅沢を堪能してヨ」
耳障りな送風音が静かだった広い部屋に響く。まあいい、引く気がないなら無意味に言い合いをするのも面倒だと消太は肩の力を抜き、素直に猫背を向けた。温風が肌を生温く撫で、髪が跳ね飛ぶ。根元に風を当てるため時おり地肌をかする指は軽やかで、わがままな毛流れをあやすように黒糸の間を滑った。
「…手馴れたもんだな」
「まーね」
鼻歌でも歌いだしそうな、上機嫌な声色が返ってくる。放埓な態度から消太すら失念しそうになるが、もともと器用な男なのだ。量の多い重たい消太の髪から水気を飛ばし整えていく手つきは傍目にみて、美容師をやっていると言っても通る位だろうと消太は思った。
目には見えないはずだが、部屋を舞う空気がゆっくりと流れているように思った。消太はそこで、自分のまぶたがひどく重いことに気づく。耳の後ろでドライヤーの騒音が鳴り、同期の男の手が自分の髪の上を走っているというのに。

「眠いの?」
かくと小さく落ちた頭に気づいたのか、ドライヤーの騒音の向こうから大きくはないはずの、低く落ち着いたマイクの声が消太の耳に響く。くっつくまぶたに抗えぬまま消太が、ん、と頷くと、もう終わるから待ってな、と言葉が返り、やがてドライヤーの電源が落ちた。同時に消太の体を支えていた緊張感までスイッチが切れたようで、ほのかに熱を含んだ柔らかな髪がシーツの上に弾んだ。
「はは、ガキみてぇ…。まあ、昨日思ったより忙しかったしな。仕事駆け込みで終わらせて朝から飛行機の長旅はハードだったよな~」
マイクが消太の上に純白の軽い羽毛布団をかぶせる。もうまぶたを開けられず白波に委ねた頬の上を、何か温かいものが走るのを消太は朧な意識の中で感じた。碧の眼差しだったのか、あるいは自分の髪の上をなめらかに滑っていたあの指だったのか。眠りに落ちた消太には分からなかった。

 

 

 

 

Day2

南国と自分はアレルギー反応をおこしている。

消太は静かにそう思った。朝食に行こうぜ!とマイクにホテルのレストランに連れてこられたはいいが、その有り余る豊富さはかえって消太をくたびれさせた。料理の入った銀の保温器はつやりと光り蓋を開けられるのを待ちかねて左右に広がり、その終わりには多種多様なチーズやパン、サラダが並ぶ。レストラン中央の広いスペースでも品数のすべては収まりきらず、ガラス戸を隔てた隣の部屋に『デザートビュッフェ』の看板がかかっているのが見えた。どんなゲストが来ても馴染みの味に出会えるよう、南国の地元料理、アジア料理、西洋料理、ベジタリアン、ムスリム向けのすべてを揃えた絢爛さに、消太は呆然と立ち尽くしていた。
「朝から食べ放題か…こんなに食いきれねぇだろ…」
「ビュッフェな。別に全部食わなくても、好きなものを好きな量食えばいいじゃん。日本と一緒だろ?」

そうなのだが、消太の知っているビュッフェは年末にホテルで行われるヒーロー親睦会位だ。広い会場の両端にわずか一列ずつ並べられた料理は腹を減らした若手ヒーローが浚っていく。まだ稼ぎの少ない彼らに食わせてやらねばと先輩ヒーローの自慢話にぐっと我慢して付き合っていれば目玉のローストビーフは欠片さえなくなるし、運よく次の目玉である寿司6貫の盛り合わせを手に入れたとしても、少しネタの乾いた小ぶりな握りを平らげる前に酔った誰かの世話をする羽目になる。終了後、同じように腹を空かせ疲弊したマイク含め中堅ヒーロー達でラーメンを食べて帰るのが毎年の恒例だった。

なんでもない顔で銀の保温器を開け物色を始めるマイクは、メディアの仕事もありVIPとして豪華なサービスを受けることには慣れているのだろう。消太も若干の気後れを残しながら後に続き、いくつかを皿に盛る。目に留まった蒸籠を開ければ、カニ焼売、うすピンク色の皮をした小さな餡まん、黄色い皮をした小さなマンゴーまんが湯気の中から顔を覗かせた。角に作られたパンのコーナーに行けば、自家製だという焼きたての大きなライ麦パンやクルミパン、バゲットが塊のまま置かれ、宿泊客が自ら好みの厚さに切り分けて据え置きのオーブンで温めていた。
(めんどくせぇ)
八枚切りの食パンを置いておいてくれりゃそれでいいのに、と消太はホテル泣かせの感想を抱きながら、パンコーナーを素通りしてヌードルコーナーに向かった。フォーや中華麺など宿泊客の好みに応じてスタンバイしているシェフがその場で調理してくれる形式のようだった。ふと、途中のフルーツコーナーで足を止める。台の上に南国の果物を並べた女性シェフが、なだらかな山を描く眉の下、穏やかに消太を見ていた。
「ウィッチドゥーユーライク?」
「え」
「パパイヤ、マンゴー、パイナポー、メロン、ウォーターメロン、ドラゴンフルーツ、ジャックフルーツ…」

目の前の果物を次々に指して紹介してくれる彼女の言わんとするところは、カットするので好きなものを選んでほしい、ということだった。別に果物を食べたいという気持ちはなかったが、愛用のナイフを手ににこにこと微笑みかける彼女に消太は気圧された。日本で見る倍もあるよく肥えたパパイヤが、半身にされた切り口から明るいオレンジの果肉とキャビアのように黒光りする種の鮮やかなコントラストを消太に向けていた。

◇ ◇

「ハッ!フルーツ山盛りじゃねーか、イレイザーかわいい♡」
南国の甘い色彩を皿いっぱいに載せ渋面で席に戻ってきた消太にマイクが声をあげて笑った。そんな男の目の前に置かれた皿はパン、スクランブルエッグ、ベーコンを除けば面積の大半をチーズ類が占めている。
「お前こそ女子か」
「チーズの種類が超ーいっぱいあったからサ。酒もあるし」
そう言ったマイクの目の前にシャンパングラスが置かれ、ボーイが琥珀色の泡立つ液体を注いで去っていく。当然二人で乾杯するのでしょうと言わんばかりに自分の分まで置かれた余計な気遣いに眉をひそめ、消太は席についた。
「朝から酒が飲めるなんてサイコ~」
「昨日酒飲み過ぎって言われたばっかだろうが。世話がめんどくせぇから酔うなよ」
マイクと形ばかりの乾杯をし、消太は箸を割ってフォーをすすり始める。新緑のコリアンダーが浮いた澄んだ鶏ガラの出汁が心地よく喉を通り胃に落ちる。
そこへ先ほどシャンパンを注ぎにきたボーイがやってきて大瓶に入ったどろりと濃厚そうなピンクのグアバジュースを笑顔で見せてきた。シャンパンに一向に手を付けない消太に、こちらはいかがですか、という彼なりの心尽くし。山盛りの果物が盛られた皿を見て『フルーツが大好きな男性客なのだ』と判断されたらしく、不本意の連続に消太は思わず半眼になる。
「センキュー。でも彼は水でいいって」
マイクがくくと笑いながら消太の代わりに英語で伝えると、ボーイはにこやかに応じ、ミネラルウォーターの瓶が二本氷に浸かった銀色のワインホルダーをテーブルに置いて去っていった。
「サービス過剰だ…」
「フーン?俺はホスピタリティに溢れたナイスアンドカンフタブルなサービスだと思うけど」
「横文字やめろ」
ワイングラスに注がれたミネラルウォーターにちびりと口をつける消太の顔を見つめ、マイクはにやにやと笑う。

「いつまでも『される』ことに慣れねぇのな、イレイザーは」

ツアーはバッチリとってあるぜ!と鬱陶しいテンションでマイクが存在を告げたのは、マングローブ林が茂り動物が数多く生息する島の南端を船で巡るマングローブツアーだった。

「本当はプライベートボートでも行けたけど、こういうアクティビティはほかの観光客とワイワイ相乗りしたほうが楽しいだろ?」
すでに少しの疲労感を覚えながらマイクの話を聞いていると、ホテルの前に迎えのミニバスが停まった。ツアーの出発地である南の港行きだった。
ワゴン車を改良しただけのミニバスはマイクと消太が乗り、十人ほどで満席だった。隣の席に座っていた金髪の三、四歳ほどの子供がそばかすの浮いた顔で小さな歯を晒し、マイクと消太に人懐こい笑い顔を見せる。長い睫毛の下で青灰色の目が、何が楽しいのか、彼しか分からないとても愉快なことでその笑顔はきらきら、きらきらと光っていた。肉付きのよい短い指をマイクの前に伸ばし、母親が叱るのも聞かずに構ってほしそうにする。マイクは笑って彼を膝の上に乗せ、アトラクションのように揺らしてキャッキャと歓声を上げさせた。地肌の透けた、細い金髪の薄く生えた頭を撫で、グッボーイ、とマイクが低い声を弾ませる。
(似合いだな…)
消太は無意識にそう思った。漏れ聞こえてきた単語によると彼女達はロシアから来たらしい。西洋人の若い母子と、彼女と同じように明るい色の髪のマイク。傍から見れば若い夫婦のようだった。

港に到着し、揃ってミニバスを降りる。船の出発まで少し時間があるようだった。マイクは子供に、またな、と手を振ってから、自分をぼんやりと見つめる消太を見返す。
「どうしたよ?」
「…お前結婚しねーのか?」
「ワッツ?急になんだよ」
「そろそろいい歳だろ俺たちも。同期で所帯持ってねーの俺とお前と…あと一人二人ってとこだろ」
消太が恋愛話を振るのが意外だったのだろう、丸い目を見開き、マイクは人より少し大きな口を引き結んで少し黙った。
「俺に早く結婚しろって?」
「別に人の結婚のケツ叩くほど暇じゃねーが、腐れ縁の男がいつまでもチャラチャラ遊んでゴシップに撮られてんのが目に入るとな」
「そういうビジネスだろ、ゴシップってのは…恋人くらいいるからお前に心配してもらう必要ねえよ」

この島に来て初めて聞く、不機嫌な声。消太が関心に眉をあげたが、マイクは背を向け歩いていった。

「私はパオチャン。今日は皆さんをこの島で一番楽しいところに案内しますよ!」

鼻が低くつぶらな目をした子犬のような顔の中年男はそう言うと白い歯を見せ、船に乗った十数人の観光客を見回した。慣れた様子で上機嫌に口を回す彼は、日差しを反射するエメラルドブルーの水面を指し、ここはこの島で一番透明度の高いエリアだと説明する。
消太とマイクが他の乗客と同じように海を覗くと、ちらちらと海面に姿を見せる蛍光イエローの背。一帯に生息するゼブラフィッシュが船の周りに集まっていた。アジほどの大きさで、名前の通り明るい黄色の体に等間隔で綺麗な縞模様が浮かんでいる。なぜ集まっているのだろう、と消太が猫のような目でじっと見つめていたところで、顔の横に食パンが差し出される。
「ドウゾ、魚にあげてください!いっぱいくるよー!」
パオチャンは焼けた肌に白い歯を見せて消太に食パン一枚を渡すと、スーパーで買ってきたのだろうまだ二十枚ほど入った大袋を手にほかの乗客にもパンを配っていた。
「…人間の食べ物やって大丈夫なのか?」
「さぁねェ」

でもまあ郷に入らば…、と言ってマイクは自分の食パンをちぎって海面に投げた。このツアーの粗雑さをこれはこれとして楽しんでいるようだった。せめてやわらかい所を投げてやろうと消太は食パンのふわふわした真ん中を摘み取ると、海に投げる。耳が異様にいいのか、あるいは匂いで分かるのか、白いかけらが落ちた瞬間に無数のゼブラフィッシュが小さい渦を作って集まり、飛沫を散らした。日差しを反射して光り、踊る、黄色い小さな背。消太がそれをぼんやりと眺めていると、パオチャンが船の中央で細く割いたパンを指に挟み、そのまま身を乗り出して海面に手を沈めた。無数の魚が彼の少し太い指に集まり、小さい口先でパンと彼の手をつつきまわす。その感触にくすぐったそうに笑っているところをみると痛くはないようだ。

「ヘイ、ボーイやりたいの?」

マイクの声に目を向ければ、先ほどのロシア人の少年が彼の顔ほどもある食パンを両手に抱えたまま、海面に手を入れて魚を呼び寄せるパオチャンを眺めていた。パンくずを投げることはできても、腕の短い彼には手を水に沈めて直接魚に餌をやることはできないのだ。
マイクは母親と一言二言英語で話すと、少年の体を持ち上げ、そのまま船のへりから両腕を落として彼を海面近くまでゆっくりと下ろしてやった。マイクが手を離せばすぐにでも海に落ちてしまう、ぶらつかせている小さな足の靴先が今にも水面についてしまう状況なのに、少年は怖がらず、むしろ念願がかなったようにキャッキャと笑ってパンを掴んだ両手を伸ばした。集まってくる魚が散らした飛沫でふくよかな頬を濡らし、手をつつく魚の小さな口先のくすぐったい感触に歓声を上げている。消太は少年の金髪の後ろ頭から視線を上げ、マイクの横顔に目を向けた。
マイクの番組のリスナーには小学生もいる。子供向けのイベントもあるらしいので、子供と接することには慣れているのだろう。少年を見下ろしていた穏やかな碧の目が消太に向き、目が合う。
瞬間、大きな衝撃に、消太は立っていた船の床の上でバランスを崩し、椅子に尻餅をついた。危うく船から落ちるところだった。消太だけではない、乗客全員が船の右端に寄り、バランスの崩れた体を落下寸前でへりに受け止められている。

「イルカだ!!!」

乗客の体重が集中し右に傾いた船で、なんとか立ち上がったパオチャンが叫んだ。彼の指先を見ると、海面から灰色に光る大きな背が跳ねた。1匹、2匹、と数えるまもなく次々と海面からジャンプしまた沈んでいくイルカは、どうやら群れで、少なくとも十数頭いるようだった。船の下を通り沖へ向かっていったのだろう、衝撃はイルカが船底にぶつかったものなのだと、冷静さを取り戻した頭で消太はようやく気づいた。横を見ると見慣れた派手な金髪の男がいない。代わりに、小さな我が子を抱きとめたロシア人の母親が呆然としていた。

『キャ―――!!』

船下から響いた耳をつんざく大音量の悲鳴に、消太は否がおうにも状況を認識する。マイクが海に落ち、無数の熱帯魚につつかれ悲鳴を上げていた。少年のために乗客の誰よりも船から身を乗り出していたところ、イルカアタックの衝撃に落ちかけ、なんとか少年を救い上げたはいいがその反動で自分は落下したようだった。消太はため息をつき個性を発動させマイクの声を並みの絶叫に抑えると、船下に片腕を伸ばした。

「ひどい目にあったぜ…ハァ~」

船が立ち寄ったのはこのツアーの見所の一つ、通称ブーゲンビリア島だった。1周5キロの小さな無人島は自生したピンクと白のブーゲンビリアが鬱蒼と茂り海上から眺めてもその色彩が目を引いた。
ここで1時間の自由時間ということで、消太とマイクも船を下りる。島は丘陵になっていて、外周をぐるりと周る坂を上りきれば小高い頂上にたどり着ける。その鮮やかな花の冠が、青空を背景に揺れていた。先ほどのロシア人親子を含む乗客のほとんどは長い急勾配を上るつもりはないらしく、海の青と足元に広がる白い砂浜、その端に見えるピンクの花々のコントラストを楽しんでいた。

「俺は服乾かしがてら、消太はトレーニングってことで…登るか?」
「行こう」
意気を込めるように伸びをする二人の背に、パオチャンが慌てて声をかける。
「行きで四十分、帰りで二十分かかるから頂上でゆっくりする暇ないよ。やめたほうがいい」
出発が遅れては困ると言いたげな彼を振り向くと、マイクは歯を見せて笑った。
「心配センキュー!でも大丈夫、俺達もっと早くいけるから。ってことで…ドンッ!」

マイクの掛け声と同時に二人は走り出した。島を周る坂道が始まる左方向ではなく、岩がごつごつとした急な斜面を作る正面へ。消太の体が岩肌の間を身軽に跳ね、マイクが時折手を付きながら長い足でそれに続く。二人の背中は5分ほどで頂上のブーゲンビリア林に消え、見えなくなってしまった。

「……なんなんだ?彼らは?」

あっけにとられたパオチャンの足元で、砂浜に落ちていた花を拾い上げたロシア人の少年が、ヒーロー!とニコニコ答えた。

「やっぱりこういう系はイレイザーのが得意だよなー」

は、と乱れた息をつく胸を抑え、マイクは感嘆する。高所への跳躍や足場の悪い場所でバランスを崩さずに動ける優れたボディバランスはイレイザーヘッドの特徴だ。海抜から二百メートルほど、さほど高くないのに頂上は明るく日差しが照り、太陽が近く感じた。足元を埋める名前の知らない小さな丸い葉の草の上に消太は腰を下ろす。周りではブーゲンビリアの花が咲き誇り、隣り合うピンクと白がまざりあって草の上にこぼれ落ちていた。
「鳥だ…」
赤い頭に黄色の冠をなびかせた鳥がブーゲンビリアにくちばしを入れ、蜜を吸っていた。消太の視線に気づいたのか鳥は振り返り、黒いつぶらな瞳を消太に向けて、ピ、と甲高い呼び笛のような音でひと鳴きした。
「イレイザーって動物と会話するトコあるよなー。猫ともそう」
隣に座ったマイクが懐かしむように話す。
「話せたらいいけどな…猫に関しては敵じゃないってことを示してちょっと触らせてもらうくらいだ。鳥はよく分からん」

目の前でキョトキョトと小首をかしげていた鳥は、飽きたのか羽を広げて飛び立っていった。
「……つうか最近おまえの前で猫かまってたことあったか?」
最近の雄英の鉄壁のセキュリティシステムでは野良猫一匹入ってこなくなった。もともと現代の都会にもう野良猫などほとんどいないのだが。
「…昔ね」
「ああ」
マイクの答えに合点がいく。十五年の付き合いだ。
のんびりと瞬いた目に日差しが眩しかった。寝そべれば茂るブーゲンビリアの影の下に顔が隠れて心地よさそうだ。消太が草の上に背中を預ける形で寝転がると、花の甘さと草の青さの混じった清新な匂いがふわりと舞う。無造作に散った黒い癖毛を見てマイクも唇の片端で笑い、後に続く。頂上の面積は狭いが、大人二人が横になるにはちょうどいい広さだった。消太の目の前でどこからか現れた二匹の青い蝶々がひらひらと舞った。少し大きさの違う二匹はつがいなのだろう、青色の羽根が光に透けてまばゆかった。
「…そういや話戻すが。結婚近いのか」
先ほどの話を思い出し、遠くなっていく蝶々の羽根を見ながら消太がマイクに尋ねた。頭に、先週ゴシップでちらりと見た気の強そうな美女の顔が浮かぶ。安っぽいカラーページに、入籍間近、人気のダンサー兼モデル、という言葉が躍っていた気がする。職員室の誰かの忘れ物だ。
「またその話?イレイザーがコイバナ振るなんて珍しい。どういう風の吹き回しよ」
「別に話したくないなら構わねえが。普段こんなことゆっくり話す機会もないからな…決まったことがあるならさっさと祝わせろってだけだ」
曲がりなりにも十五年の付き合いなのだから、と暗に言う。マイクはしばらく空を見上げて黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始める。
「…俺の中ではもう結婚してるようなもん。長ェしなー」
「何だそれ。籍入れてねえのか?」
「入れてない」
「指輪も?」
「あげてない。…えーお前ンなこと気にすんの?意外だわ」
「女の人は普通ほしがるもんだろ」
ふはっと笑ったマイクの息で金色の髪が一筋宙に舞った。
「そういうのは全然気にしねー子なの。指輪なんかあげてもつけないしタンスの肥やしになるだけだろ多分。イヤ絶対…タンスもつほど服もない奴だけど」
言い切るマイクに人の情事とは言え少しだけ興味がわく。どんな子なんだ?と尋ねれば、マイクは首をひねってから愉しげに言葉を続けた。

「そうね。すげー頑張りやさんで、クールだけど実は負けず嫌いで」

「言葉はそっけないけどいつも優しくて」

「髪はボサボサ伸ばしっぱなしで無精髭生え散らかしてて」

「俺の尊敬するヒーロー」

マイクの唇が発したのは、消太にとってよく聞き覚えのある、ありすぎる名前だった。不可解さに、一瞬耳が遠くなった気がした。目の前の碧色が、今日見た海のエメラルドブルーよりもはるかに澄み、日差しに溶けてしまいそうだと少し心配になったからかもしれない。ボーッとしたままの消太の癖のある髪に長い指が絡み、するりと梳く。

「…。笑えないぞ」
「冗談じゃないぜ?俺の恋人は相澤消太、お前」

いつまで笑えない冗談を言っているのだコイツは。と不可解さを全面に押し出す消太の顔を、マイクの手のひらが滑る。ひどく優しい触り方はまるで、まさしく恋人同士のような。

「お前はUSJのケガの後遺症で記憶障害になってる。記憶喪失、って言った方が分かりやすいか」

記憶喪失  。マイクの言葉それ自体には消太は特に驚かなかった。退院直前、病院で医師から『少し記憶が混乱している』と診断されていたからだ。しかし。

(こいつと恋人…)

実際に生活をする上でいくつか忘れていることはあった。しかし医師には日常には支障がないだろう、と言われ、事実消太は何の問題もなくこの三ヶ月間、USJ事件の前と変わらぬ教師兼ヒーローとしての日々を過ごしてきた。眉をひそめた消太に答えるようにマイクが頷く。
「記憶はほとんど無事。俺と恋人だったことと、それに関する事実だけがすっぽり抜け落ちちまってる」

そこから消太の記憶は少し飛んでいた。正確に言えば、マイクの言う『事実』について幾つかやりとりをしたが、聞かされた話は消太にとってなに一つ腑に落ちず、理解できるものではなかった。高校の頃に付き合い、その後紆余曲折ありながら十五年後の今も恋人関係にあるという山田ひざしと自分。消太はどこか他人事のように話を聞いていた。
(非合理すぎるだろ…)
もしマイクが言うことが本当ならば、消太の感想はそうだった。何かを思い出す気配もなかった。

ツアーの最後であるマングローブ林。顔を覗かせた猿が太い枝を伝って消太の肩に飛び乗り毛繕いを始めたが、消太にはどこか遠い出来事のように思えた。その後船はマングローブ林を抜け、本島の砂浜に帰港する。出発場所とは違い、消太とマイクの泊まるホテルまでは5キロほどだということだった。

「時間あるし、ぶらぶら歩いて帰るか」
消太の様子を見て、マイクは穏やかな声色で言った。左手を海にし、見えなくなるほど向こうまで白い砂浜が続いていた。二人のハネムーンスイートの前に広がるプライベートビーチとは異なり、各国の観光客がまばらに散り、憩っている。時おり、島の少年が「ハロー!」と仮設の小さな海の家から声をかけ、シュノーケリングやパラグライダーの単発ツアーを買わないか、ヨソよりうちが安いよ、と呼びかけていた。

「消太、喉渇かない?」
「…ああ」
マイクが右手のジューススタンドを指さしたので、消太は頷く。気付けば会話もなく黙々と歩いていた。いつも賑やかしいマイクが話しかけてこなかったのは気遣いなのだろうと遅れて気付き、少し申し訳ない気持ちになる。

「何飲む?俺が買う」
「お、センキュー。じゃあレモネードで」
消太はジーンズの尻ポケットから小銭入れを取り出す。木組みの小さな売店に近寄りながら自らも小さなウッドボードに綴られたドリンクメニューを眺めたが、走り書きの気ままなアルファベットを読むのが面倒になり、結局レモネードを2つ注文した。
透明なプラスチックカップの中で、檸檬の輪切りが氷を抱いて涼しげに踊る。このまま歩きながら飲んでもよかったが、観光客の賑やかさが途切れたジューススタンドの前の浜辺が静かに二人を誘った。
午後2時、まだ終わりを見せない長い南国の昼はただのどかに明るく、日本での雑然とした慌ただしさを忘れてしまいそうなほど平和だった。

「俺たちはどこまでしたんだ?」

消太らしい単刀直入な問いに、マイクは咥えたばかりのストローを噴いた。
「…そりゃあもう、恋人がするであろうこと全部。数え切れないくらいに」
マイクの答えで消太の頭に裸の自分たち二人が頭に浮かびかけたが、時空がねじれそうな強い違和感に思考を強制的に止めた。
「…俺とお前は普段どんな風に過ごしてた?」
「一緒に住んでた、俺の家で。消太の家も解約してなかったけど、もうお前はほとんど自分の家にも帰ってなかった」
消太はUSJの後病院から退院して自宅に帰った日を思い出す。ひやりと冷え、物のない我が家。生活感が薄いのは元々だったが、それでも少し奇妙に映った。コンセントの抜かれた冷蔵庫を開ければ栄養ゼリーが一つ寂しげに横たわっていただけで、数日前まで自分が暮らしていたとは思えなかった。着替えようと思っても幾つかスペアがあるはずであろうスウェットもなく、首を傾げたものだ。

「平日は時間ずらしてばらばらに出勤して、夜はお互い早く帰ってたら俺が作ったメシ食って。オフは家でゴロゴロしてエロいことしたり、猫カフェで猫ゴロゴロしたり。ごくフツーの愛と平和に溢れた日々」
海の向こうを眺めるマイクの口調はつい最近までのありふれた日常をしみじみと愛おしんでいた。覚えがない消太も、この男が一刻も早くそこに戻りたがっているのだということは考えずとも分かった。
「…マイク」
自分が思っているより低く沈んだ声が出た。のんびりと過去を懐かしんでいるように見えて神経は研ぎ澄ませていたのだろう、ん?と聞き返したマイクの反応は、なにかを察知したように遅く、不安げだった。
「すまねえが受け入れられない。お前が言うような元の生活に戻るのは…無理だろう」
口にすることはなかったが、付き合うと決めた高校の頃の若気の至りだったのではないかと思った。一人でもなんら問題なく生きられるし、マイクとそんな関係になりたいとは思わない。もっと幸せになれる選択があるだろうと消太は思った。

「…もうちょっと悩んでくれてもいいんじゃねーの?」
事実を告げてからまだ一時間。腕時計をちらと見たマイクが、お前らしすぎてやんなるぜ、と苦く笑った。
「誤解しないでほしいが俺はお前が……好き、だ。けどそれはダチでいいんじゃねえかと思う」
なにも自然の摂理をねじまげて恋人同士などという奇妙な関係にならなくても。友達でも飯は食えるし猫カフェに行けるし酒を飲み愚痴を言い合い最後には笑い合える。恋人同士である必要はない。それが消太の結論だった。
「お前にはほかにいろんな生き方があんだろ…」
「そのイロイロな生き方から消太と一緒にいることを選んだの、俺は。十五の時に」
砂の上に目を落とし顔を伏せたマイクの声は微かに震えていた。十五で人生を固めるのは尚早だ。自分の過去に、純粋過ぎて目も当てられない、熱い溶鉄のような感情が確かにあったのかもしれない。しかし今の自分にはそのひとかけらさえ思い出すことができず、今後考えが変わるとも思えなかった。それならば早く諦めさせてやるべきだと消太は思っていた。適性のない生徒を、本人の貴重な時間を無駄にさせないために除籍する時と同じ、合理的な判断。
消太の顔に突然するりと触れた指が、顎の無精髭を愛おしむように撫で、顔の角度を少し上げさせる。閉じられたまぶた、日差しに透ける金色の睫毛。先ほどのブーゲンビリア林でついたのか、鼻腔に甘い香りが強く感じられ、一瞬眩暈がした。しかしスローモーションで流れる目の前の光景が意味することに思い当たり、消太はマイクと自分の顔の間に手を挟んでいた。
「無理だ。すまん」
キスなど受け入れられない。意思を代弁する消太の手のひらで、マイクの唇がじわりと笑みを形作り、静かに顔を離した。
「ゴメン。じゃあ手握ってもいーか?」
「何がじゃあだ」

許可をしてもいないのに、砂の上に置かれた消太の左手に外気より少し温度が高い体温が落ちる。マイクの手はさらりとして温かかった。男にしては綺麗に手入れされた長い指が消太の、ゆるく握ったままでピクリとも動かない手に絡む。指の間に柔らかく滑り込んだ指。上から包むように握る力は、どこか怯えを含んだように弱かった。
「ガッチガチ…」
自分の手を握り返してくれるどころか強張った消太の手に、マイクが笑う。けど振り払わないところが優しいな、流石俺の好きな男、と妙な持ち上げ方をする。
「明日どうするんだ?」
手を握られ黙って受け止めているのも落ち着かず、消太の口が急いた。マイクは少し考えてから、アズユーライク、と返す。
「明日からは真っ白。特になんの予定も入れてないから消太がやりたいアクティビティがあれば押さえる、食いたいもんがあれば店探すし、お前次第」

…一人で日本に帰りたきゃ航空券を手配する、と最後に言い添えた声は静かだった。
「ダチと旅行に来たのに一人で帰るヤツがいるか」
「嬉しくて悲しい言葉だね、そりゃ」
マイクはへらと笑い、立ち上がった。

夕食は5つあるホテルのレストランのうちシーフード料理で済ませ、タイガープラウンと呼ばれる大エビのココナッツ炒めに舌鼓を打ったはずだが、消太は味を覚えていない。この島のことや雄英職員室の面々についてマイクと話をしたが、お互い上の空だった。
風呂先入れば?と勧めたマイクに素直に従い広いシャワールームの扉を開ける。無音の空間は消太の心を軽くした。コックをひねり程よい温流が頭上に降り注げば、知らずフゥと溜息が漏れる。マイクに帰らないとは言ったものの、帰国までの長い日数を思うと心が重くなった。マイクはどうなのだろう、と考えかけて、無駄な思考はやめようとシャワーの水圧を強める。
体を洗いながら、温水の流れ落ちる下腹部に目を向けると、下にぶらりと垂れ下がる萎えた性器が目に入る。
(…どっちだったんだ?)
上なのか、下なのか。マイクにどちらが突っ込んでいたのかと聞くのは流石に躊躇われた。そこまで踏み込むつもりはない。苦い顔がミラーに浮かんだ。こんな髭の生えた男に欲情するとも思えない。恐らく、自分がマイクに突っ込む立場だったのだろう。そう結論付け、下を見る。萎びた自分の息子はやはり意気を落としていた。

消太が濡れた頭で風呂から出てくると、ベッドの上でテレビを見ていたマイクが起き上がった。
「ヘイ濡れネズミちゃん。カモン」
消太の習性を予測し、ベッドの上に持ってきていたらしいドライヤーを片手にマイクが手招きする。
「いらん。髪くらい自分で乾かせるって言ったろ」
「まあそう言うなって。肩の力抜こーぜ?あと八日一緒にいるんだしよ。取って食いやしないから」
上はTシャツ、下はスウェットと昨日と変わらぬ姿の腕を引き寄せられ、抗うのもバカらしく消太はベッドの上で胡坐をかいたマイクの前に尻を落とした。耳障りな可動音とともに温風が消太の重たい髪を散らす。マイクは意外にも黙っていた。頭の上を滑る手。消太はまた、瞼が重くなるのを感じた。
舟を漕ぎかけ、今にも目が閉じようとしたところでドライヤーが止まる。乾かし終わったのだろう、とどこか遠いところで思った消太の後頭部に、何かがやわらかく触れた。それがマイクの唇だと気づいたのは、控えめにリップ音がしたからだ。
「おい、」
何してる、と振り返った消太は言葉が出なくなった。頬を静かに滑る雫。先ほどまで笑っていたはずの目は、透明な悲しみで溢れ、浸っていた。ぎょっとした消太の表情にマイクもやっと自分の状態に気づいたのか慌てて涙を拭うと、「ちょっとファ…ファミマ行ってくる」と言ってサイドボードに置いていた携帯を掴み出て行った。ドアが閉まり、一瞬のできごとに消太はどうすればいいかわからない。
(ファミマ行って来るってなんだよ)
日本じゃあるまいし、そんなもん近くにあったか?そう思いはしたが、突っ込む相手もいない。気にせずにはいられないが、追いかけるべきでもないだろうとも思った。消太は思案に暮れたままベッドに頭を落とす。ズゥン、と重い音がした気がした。

日本との時差はわずか2時間、まだ日付を跨いだばかりのはず。ヒーロー名にふさわしく、彼女はやはり起きていた。

『あらマイク、そっちはどう?』
「最悪ケース」

4コールで電話に出てくれたミッドナイトののん気な声に、気の利いた言葉の一つや二つ挟みたかったが、今のマイクにはそんな余裕もなかった。
『…。相澤くん、全然覚えてないって?』
「俺と恋人同士なんてありえねェって面だった…告白して一時間でスッッパリ振られた」
『相澤くんらしーわね…』

恋人同士だったという事実を告げれば。あるいは、愛を囁いて思い出話をすれば。あるいは、キスをすれば。きっと思い出してくれるだろうと、マイクは心のどこかで信じていた。この三ヶ月、相談に乗っていたミッドナイトも二人がひた隠している(と本人たちは思っている)愛の深さねちっこさを知っているだけに、それで問題は解決するだろうと思っていたのだが。
「消太の奴、俺のことなんとも思ってないの!なんっとも!」
「なんともって、大事な友達だとは思ってんでしょ」
「だからそれがつれーってのォォォ!!」
「ちょっとぉ耳元で叫ばないでよ。切るわよ」
絶叫したマイクにミッドナイトが怒ると、泣きそうな声で引き止められる。
「日本帰りたい…もームリ、この現実たえられねー…消太が俺を好きじゃないなんて…パラレルワールドか?ここ」
「落ち着きなさい、この旅行にかけるんでしょうが。代わりに宿直引き受けてあげてるんだから気合入れなさい」
とはいえマイクが専門医を訪れ聞いた話では、記憶を戻す方法はなく、一生戻らない可能性もあるということだった。二人の間に沈黙が落ちる。
『やっぱりショック療法しかないでしょ…相澤くんをヤッちゃうのよ』
「んなの無理やり襲って嫌われたらどうすんのヨ…」
『それはそれであんたも諦める機会になるでしょ。気持ち切り替えていい女捕まえてハワイで挙式でもしなさい』
「ヒトゴトだと思って…」
『ヌルいこと言ってんじゃないの。今回逃したらもうこんなチャンスはないわよ。相澤くんが好きなら死ぬ気でいきなさい』
私があげたドリンク相澤くんに使ってね、二十分で効果が出るから、と言い添える彼女にマイクは苦笑して相槌を打つ。あやしい催淫効果のある特製ドリンクを使うことはないだろうが、ミッドナイトの言わんとすることは分かった。できることは全てやれという強烈で温かいメッセージ。
「センキューねえさん」
言葉を交わし、静かに通話を終える。思えば昔もよく姉に助けられた。彼女は大学の頃に付き合って別れた男と復縁し、去年結婚したところだ。

マイクが戻ってくると消太はベッドには入らず、ソファで体を横たえて眠っていた。どこでも寝られる人間なので場所にも寝相にもあまりこだわらないところがある。家のソファで、カーペットの上で、採点や資料整理を終え、または戦闘で疲れた体のまま眠っている消太の姿を思い出す。マイクはクローゼットから予備のブランケットを出すと消太の体の上にかけてやり、そのまま寝乱れた前髪に唇を寄せる。

「おやすみ、darling」

眠っている姿は三ヶ月前の恋人の消太と変わらないように見える。そう思うと、マイクの涙腺がまたじわりと涙を送り出しそうになった。これ以上泣いては目が腫れる。大の大人が、バカンスでそんな情けない姿を晒したくはない。慌てて目じりをぬぐい、ベッドへ入った。
衣擦れの音が静かになるのを聞き、消太はひっそりと目を開けた。