アガレスとニスロク

mgdアガニス

 

ドアが迷いなく、しかし静かに開かれた気配にアガレスは目を覚ました。部屋の隅に灯しておいたままのランプに照らされ、三つ編みの影が揺れる。
「…終わったのか」
アガレスが尋ねると、ベッドに歩み寄り端に座ったニスロクが「あぁ」と答えた。その体からは獣の肉と骨を煮た甘ったるいスープの匂いが微かにする。翌日の仕込みが終わったので彼はこの部屋に休みに来たのだった。眠らないニスロクの一日は途方もなく長い。アジトにいる日は、朝食を作り、食材の調達をし、昼食を作り、仕込みをして夕食を作り、翌日の仕込みを終えて彼はようやく自分の一日が終わることを許す。終了は深夜であることが常で、明け方になることもある。いくら純正メギドといえども肉体と精神の疲労はあるはずで、アガレスは以前『疲れないのか?』と一度尋ねたことがあるが、予想に違わぬ彼らしい言葉が手短に返ってきただけだった。疲れることなどより料理で妥協をすることのほうが許せない男だ。

「起こしたか。すまんな…」
ニスロクに尋ねられ、アガレスは、いや、起きていた、と答える。正確に言えば、浅く眠っていた。ニスロクがこの部屋を訪れたらすぐに目を覚ませるように。出迎えてやろうとか、労ってやらねばとか、そう思ってではない。一皿一皿、かき混ぜる鍋、厨房で触れるすべてに精魂を込めて長い長い一日を終えたニスロクが浮かべる疲労と充足感の入り混じった顔が、アガレスは好きだった。厨房では一瞬の緩みもない男が、色褪せた生気を放つ隙のある瞬間が。今日は明け方なのでヴィータであるアガレスを気遣って口を開く気はないようだが、もう少し早い時間であればニスロクは最近見つけた食材や満足にできた新しい料理について饒舌に話してくれることもあった。
(この男にとってはここで過ごす時間は無駄、かもしれないが)
自分とのお喋りも、手を動かさずただ休むことも。だがアガレスはこの時間が楽しい。
「横になるか」
アガレスが壁際に寄りベッドの隣を開けると、ニスロクが背負っていた巨刀を下ろし、腰の包丁を外し、部屋の隅のテーブルに置く。それから肩当も。料理人の硬く鋭い道具を取り去った、生身に近づいた彼がベッドに入ってくる。百八十センチを超えた男二人が収まったベッドの窮屈さ。ニスロクは睡眠を無駄だと考えているので眠るわけではないのだろうが、休むつもりはあるらしく、招けばアガレスのベッドの中で朝まで目を閉じている。横たわっても結局は料理のことを考えているのだろうが、いつも動いている彼にとっては珍しい束の間の休息だ。アガレスはニスロクの三つ編みに手を伸ばす。
「…いいか」
そう尋ねると、目を閉じたままの男が、…うん、と喉の奥の低い一音で答えた。以前寝床に入ってきたニスロクに、休むなら髪を解いたらどうだ、と言って以来の習慣。ニスロクにとっては髪を解こうが解かまいがどちらでもよいらしく、自分ではしないが、アガレスの手が伸びてくれば大人しく髪を委ねてくれる。結い紐を解くと、窮屈そうだった毛先の髪が空気を含みゆっくりと解れる。ニスロク本人の印象のせいか黒々とした髪は剛直な手触りを予感させるが、触れると意外にも柔らかくほの温かい。編み癖のついた髪をアガレスは指先で丁寧に解いていく。さらさらとして指通りがよいのが心地いい。
ふと顔を上げると、ニスロクと目が合う。目を閉じていたはずの彼は、いつの間にか睫毛の下からこちらを眺めていた。
「…どうした?」
「いや…夕食のレシピを考えようと思ったが、寝る。…貴様の手」
琥珀色の瞳が自分の顔の横にあるアガレスの腕をちらと見つめ、静かに閉じる。
「触られていると眠ってもいいと思えるな…」
アガレスは黒髪の後頭部に指を梳き入れたまま固まった。ニスロクは俯いて眠りの姿勢に入る。
「……今日の野草はよかった」
すう、と聞こえてくる寝息。いつになく眠たげな発声でニスロクが最後に呟いたのは、数刻前の夕食に使った、アガレスが採ってきた野草のことだろう。根を取り除くのを手伝った後によく手を洗ったつもりだが、鋭い嗅覚は満ちたりた記憶の名残を嗅ぎ取ったらしい。

 

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