「友達が、いないんですよね……海に行くにも、飲みに行くにも」
友達が、いない――……。
言葉にすると気持ちがしおしおする内容だ。燕青さんは、まずった、という顔で、気遣わしげに俺を見る。
「すまん、そんなこと言わせるつもりじゃなかった」
「いやいや。海も飲み屋さんも1人でいこうと思えばいけるはずなんですけど」
でもなんとなく行く気が起きないのは、たぶん楽しみ方をよく知らないからだ。今の俺が1人で海に行っても立ち尽くしてビーチで遊んでる人たちを恨めしげに眺めて終わりそう。お酒も、歯学部の友達と安い酒を囲んだり、サークルの先輩に潰された経験くらいしかないから…まだよく知らない土地の居酒屋さんののれんをくぐるのはどうにも心理的なハードルが高い。
こっちに来てから、気軽に『行ってみる?』と言い合える友達の存在ってデカかったんだなと気付かされた。今さら?…ハイ、人生二十五年目で恥ずべきことだけど。
「…新天地に来たら、まず仕事に慣れることで精一杯だもんなー」
燕青さんが少し申し訳無さそうに言った。
「要領があんまりよくないもんで、はは…」
でも、仕事のことで手一杯だったとしても、仕事のことで頭が一杯の状況はきっとよくない。あんまり歯医者に来たがらないというこの地域の患者さん特性の話だって、すぐどうにかできる事じゃないし、気長にやらないとな。
…燕青さんがさっき気晴らしできているか聞いてくれたのも、同じような考えで俺を心配してくれたのかもしれない。確かに大事だ、気晴らし。
「燕青さん!」
「お、おう」
「俺に…海での遊び方を教えてくれませんか」
友達になってください、なんて一足飛びには言えないけど。でも、心配してくれた彼に甘えて、これくらいはお願いしてもいいだろうか。
「そりゃもちろん、よろこんで」
彼の内側から溢れた光が見えるようだ。地面に落ちた真夏の木漏れ日みたいで、俺は目を細めた。いつまでも眺めていたくなる、心の外縁を温かさと寂しさで焦がすあの光…――。
「休診いつだっけ?ここ。明日か」
燕青さんに尋ねられ、えっ、あっ、はい、とポエムから正気に返って返事する。彼は俺の挙動不審など意に介さず、繁忙期の仕事をどうするか考えていた。
「そうだな、明日の午前なら…知り合いに仕事代わってもらえると思う」
「! いいんですか」
「ん。何時待ち合わせにする? 十時とか? 先生次第でいいよ」
午前中いっぱいまでなら、十時からはちょっと短い。九時はどうですか、と聞くと、燕青さんは、休みの日にゆっくり寝なくていいのかー? と冗談半分気遣い半分の眼差しで尋ねてくる。
「せっかくの機会ですし…悔いが残らないよう遊び尽くして気絶しないと」
「はっは! 気絶なんかさせないけどさ。んじゃ、朝からめいっぱい遊ぼうな」
…
「…海が好きでここに診療所建てたのに、海見てたら働くのバカらしくなって辞めるって、派手に打ち上がってていいよなー」
この診療所の前院長であり現オーナーの前野先生は手頃な共通の話題だった。俺からすればこの院で働かないかと声をかけてくれた恩人であり、大学の恩師でもある。燕青さんからすれば、人生楽しんでいる面白いおじさん、好漢、ってとこだろう。ちなみに前野先生は俺にこの院を任せ今は毎日釣り三昧だ。
そうしたいくつかの談笑の後、気まずくはない沈黙が落ち、さてそろそろ…と言いながら燕青さんがラムネの瓶を片付ける。海の家のおばさんに返すからって俺の分まで。二本の瓶を手に出口に向かう後ろ姿を見送ろうとしたら、彼は振り返った。
「…あ。そーだ先生、俺のことは燕青でいいよ。敬語もむず痒いからなしで頼む」
突然の呼びタメOKに俺は狼狽えた。そんな風に言ってもらえるのはうれしい。うれしいけど。
「患者さんを呼び捨てにするのはちょっと…」
呼び方というのは、医療者として患者さんに敬意を持って接するための基本だ。ただの形式とは言え、一対一の距離感が大切な臨床の現場で長く受け継がれているのはそれだけの理由がある。俺の回答に、燕青さんはゴリ押すつもりはないようで、OK、とあっさり引き下がってはくれたけど。
「…休み時間に2人でラムネ飲んだ仲だけどな?」
「あ」
「ついでに明日も遊びにいくし」
「う」
たしかに、どれも「患者さん」とは普通しないこと。出会って2日で歯科医と患者さんの枠を元気に飛び出してしまった。この関係に名前をつけるなら、もしかして……もしかして、俺が欲していたアレ?
燕青さんの顔を見上げると、ライムグリーンの目がいたずらっぽく瞬いていた。
「気が向いたらな?」
急かしたり、職業上の考え方に踏み込んだりはしない。そんな態度で、だからこそ俺の焦燥に火をつけて、彼は軽い別れの挨拶と共に診療所を出ていった。
◇
呼び捨てでいいよ。
そう言われたものの、第一声は緊張するし、声を張り上げると同時に心臓が飛び出そうだった。
「燕青!」
ビーチに降りる土手に立っていたポニーテールの後ろ姿。俺の呼び声に振り返った燕青は少し驚いたように目を見開き、それから白い歯のこぼれる優しい笑みを顔に広げた。
「おう、おはよーさん。よく寝れた?」
「おはよう…うん、寝れた、よ」
話してるだけで心がフワフワ、ソワソワする。呼び捨て敬語なし、慣れるまで落ち着かない。誰とでも仲良くなれそうな燕青は、名前で呼ばれることにも親しげな言葉遣いで話されることにも慣れているんだろうけど…。
「…ちょっと照れるな? 思ったより」
柔らかく目を細めて燕青が言ったので、意外さに俺はえっと声をあげた。
「いやあ、しっくりきすぎて。そうそうこれだよな、って落ち着く反面、心臓じかに触られた気分になる…先生に呼ばれると」
呼び捨てされるのは慣れてるけど、俺にされた場合の自分の中の反応はちょっと予想外だった、ということらしい。「燕青」と、試しにもう一度呼んでみると。
「ン…よし、行こうか!」
照れているのか燕青は形の良い唇で微笑んで俺の戯れをキャッチすると、あとは何も言わずに次へ促した。
彼はビーチに降りず、道路を渡って反対側の店の並びに向かった。行く先は黄色い看板のサーフショップだった。
「黄飛虎、いるかー?」
「ああ、燕青!」
少し焼けた肌と、流した前髪に交じる黄金色の髪。陳列された大きなサーフボードとウェットスーツの間で立ち上がった男性は、燕青に負けず劣らずのきらきらした笑顔をこちらに向けた。
「昨日話した通りだけど、いけるか? 午前」
「任せてくれ」
二人の話を聞くに、午前中燕青が仕事を休む間は彼が代わりにビーチの監視をしてくれるらしい。簡単に話を終えた燕青が、黄飛虎さんに俺を紹介してくれた。
「俺は黄飛虎だ、よろしく頼む。サーフィンやりたくなったらいつでも来てくれ、楽しいぞ!」
サーフィン。いわゆる陽キャと呼ばれる人たちの趣味の四天王とされるあの……今までの人生で自分がやるなんて考えたことも、そんな機会もなかった。でもここに住んでたら自分がちょっとやる気になれば出来るのか…。すぐやりたいとか、全然そういうのじゃないけど。なんとなく燕青の顔を見ると、俺を全肯定するような柔和な笑みが返ってくる。
「やることいっぱいあんね? 先生」
◇
「脱いで、先生」
言われるまま俺がTシャツを脱ぎ水着だけの姿になると、背中に白く濡れた手が触れた。燕青の手のひらがぬるりと俺の肌を上から下まで滑っていく。よくない連想をしてしまいそうになるけど、男らしい広い手のひらは温かくて、頼もしい。
「海に来たら日焼け止め絶対塗ってな」
ビーチで監視業務に入った黄飛虎さんと別れ、準備体操をし、まずは手始めにちょっと泳ぐか!というタイミングで――そういえば日焼け止め塗ってるよな?と聞かれ、首を振った俺は、すぐさま燕青による手厚い紫外線対策を施されていた。
「日焼けって軽い火傷と同じだから侮れんよ。熱中症のリスクも上げちまうし」
はい、と後ろから渡されたチューブを受取り、自分で顔と体の前面に塗る。SPF70と書かれた日焼け止めは英字に包まれ、その辺のドラックストアで買える気軽なやつではなさそう。
「毎日塗ってるんだ…」
「仕事の時は毎日どころか数時間おきに塗り直してる。俺は焼けると刺青がダメになるから余計な…」
確かに、長時間日差しに晒される仕事をしている割に燕青の肌は焼けていない。と、俺の背中を塗り終えた燕青の手が肩に触れた。
「先生、三角筋しっかりしてるな。何かやってた?」
「中高水泳部だったから、いちおう…」
「お!いいね。じゃーハンデなしな?」
「待って。おなか見て!今はこんなにぷよぷよしてる!」
俺がすっかりたるんだおなかの肉を指して長いブランクを主張すると、人の良い笑みが返ってくる。
「ぷよぷよしてる、なるほどな。先生の望みは?」
「うっ…ぷよぷよしてるから…、」
「してるから?」
「ひ、引き締めたい…ッ」
「ようし♡ 先生のそうやって流されてくれるとこ、好きだぜ」
現役のライフセーバーとハンデなしガチの競泳をやることになってしまった――内心青ざめた。が、好きとか言われキュンとした。同性だけど!でも、燕青の笑顔とセットの「好き」って、性別を飛び越えてくるよさがあるっていうか…。
「あのブイまで百メートルある」
燕青が指差す先、青い海にオレンジ色の球形のブイが浮いている。ゴールだ。
「いきなり気張ると足攣るかもしれねぇから、まずはあそこまで一緒にゆっくり泳ごうか」
燕青が上着を脱ぎ、水着一枚になって海に向かう。砂浜の赤い上着の隣に俺もTシャツとビーチサンダルをちょっと無造作に置いて、黒髪を靡かせる後ろ姿を追いかける。素足で踏みしめた砂はじゅわりと熱い。けど、どこか捉えどころのない柔らかい砂粒を踏みしめるのは独特の心地よさがある。暑かった砂の温度は波打ち際が近付くにつれ冷たくなり、やがて濡れた重い砂に指先が沈む。広い肩幅と引き締まった腰つきの、とんでもなくプロポーションの良い立ち姿の隣に並ぶと、燕青は顔を綻ばせ、俺の笑みを誘った。
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