顔、ちっさあ…。
自分と同じ身長くらいの成人男性に対して、ちょっとおかしな感想だけど。診察台に横たわった彼、燕青さんの顔が日常ではめったに見ないくらい整っていたから。
先端に丸い鏡がついたデンタルミラーを手に「失礼しまぁす…」と言えば、端から端まで綺麗に並んだ歯。歯科衛生士さんがいない当院は俺一人で診察も記録もしなきゃならないから普段は少しせわしないが、彼の場合は異常なしの斜線をシャーっと引いて、はい終了。診察はあっさり終わった。「問題はありませんでした、よく磨けていますね」
口を閉じた整った顔が、少しほっとしたように表情を緩めた。顔の造りからなんとなく予想はついていたけど、歯のサイズも噛み合わせも歯列模型みたいに綺麗な人だった。歯茎も健康的なピンク色で、正直彼の口に器具を入れたままボンヤリ見惚れそうになった。「綺麗な歯並びですね」と言えば、褒められた彼は素直に顔を綻ばせた。顔が小さく歯並びの良い顔立ちはハンサムに引き締まっているのに、口角を上げると途端に温かさが溢れる。
「そりゃどうも。俺は素人だからわからんけど、先生もいいんじゃないか?」
「そうですか? ありがとうございます」
その場で三回転ジャンプをしたくなるくらい、俺は内心うろたえた。普段あんまり自分の外見に注意を向けられることがないからかな。彼は俺のお礼に、ひとなつっこく笑う。…やっぱり骨格が綺麗だ。俺は平静を取り繕って尋ねた。
「お仕事、大変ですか」
「ん? 俺のこと知ってるのか?」
「ええまあ」
彼が仕事をしている姿はこのクリニックの窓から見える。海水浴に来た人たちの安全を守るライフセーバー。一つに結わいた黒髪をたなびかせた立ち姿を遠くから眺めるだけだったので、美形だと噂に聞いていた彼の顔も全身の刺青も、間近で見たのは今日が初めてだけど。
「仕事なぁ。最近は海で溺れるより熱中症の方が気をつけないとって感じだな…先週も1人倒れて運ばれた」
「救急車来てましたもんね」
「お。よく見てるな」
俺も診察があるのでいつもビーチを見てるわけじゃないけど、静かな海辺のこの町でサイレンはよく響くし、拓けた砂浜の隣に救急車が停車すればとても目立つ。待合いがどよめき、「先生、みて、救急車ぁー!」と小さい患者さんに呼ばれたりするので、関心を向けないわけにはいかなかった。
「海見るのは慣れてるから、なんとなく危ねえなーって人を見つけるのはできるつもりだが…熱中症はまだまだ。倒れてから気付くことが多いね」
眉を下げたが微笑みを崩さないのは、重苦しい空気を避けるためだろう。
「…すぐに応急処置して救急車を呼んでくれる人がいるって大きいと思います、すごく!」
彼は別にそんな言葉を求めてないかもしれないけど、つい言葉が口をついて出た。立場は違うけど、俺も医療の一端に関わっているから、助けたい側の気持ちには勝手に共感してしまう部分がある。
「燕青さんがいるだけで皆安心して海で遊べますし…その」
うまくまとまらない俺の言葉を、じっと辛抱強く聞いていた燕青さんが引き取ってくれた。
「この町のみんなの歯の健康を守っている先生にそう言われると心強いね」
ありがとうな――お礼と共に向けられた笑顔が眩しい。といっても、真夏の太陽のように鋭利な光じゃなく、今まで誰にも照らされたことがない胸の裏側をじんわりと温めるような…
「次はいつ来ればいい?」
診察台の上で起き上がった燕青さんに尋ねられてはっと我に返る。そう、彼の診察はもう終わり。待合には次の患者さんもいる。
「はん、」
「半年後?」
言葉に詰まった。半年後と言いかけて、ずいぶん先だな、という思いが頭を過ってしまった。彼なら本当だったら1年に1回か、正直言って定期検診なんかしなくてもいいくらいかもしれないけど。なんだけど。
「念のため…3ヶ月後に来てもらってもいいですか?」
仕事が忙しくなければ……、と付け加えた語尾は不自然に小さくなったけど、彼は疑問を差し挟むことはなく。「3ヶ月後な」と俺の心に温かさを残して去っていった。
「おだいじに〜」
と午前帯最後の患者さんを外まで見送った俺は、容赦ない日差しに目を瞑った。まだ7月の始めなのに、こんな攻撃力を振るってくる太陽に恐れ入る。診療所のガラスのドアにかかっていたプレートを「診療中」から「休憩中」にかけかえる、その一瞬の間にも、白衣の襟から露出した首後ろのわずかな面積も逃さず、太陽はジリジリと焦がしてくる。
「暑いねぇ」
突然横から聞こえた声に、俺はちょっと叫びかけた。誰かが近づいて来た気配なかったけど…?
「…燕青さん…」
次は3ヶ月後か、と思った彼との再会は思ったより早かった。昨日ぶりだ。暑いね、と言った割に、暑さに苦しんでいるようには見えない顔で彼は立っていた。両腕には涼しげなライトブルーのラムネ瓶を4本抱えている。
「昨日はどーも。海の家のおばさんに貰ったんだが、どうかね?」
一人じゃ飲みきれなくてさ、と彼は少し首を傾けて懐っこく笑った。…かわいい。かっこいいのにかわいさも出してくる、恐ろしい存在だ。
「あ…ありがとうございます。中どうぞ」
「いいの? これから昼メシに出たりするんじゃないのか」
休憩時間は12時から13時半。ガラスのドアにかけてある診療案内をちらと見て燕青さんが言う。
「お昼は用意してあるおにぎり食べるだけなんで…最近暑くて食欲もないですし」
スタッフさんを雇っているわけじゃないので、細休憩時間は大体朝用意したおにぎり2つを食べながら器具の消毒や片付けをしたり、カルテの整理をしたり。とはいえ忙しい程でもなく、何より1人で淡々と食事と雑務をこなすのは味気ない。だから輝く笑顔の燕青さんとシュワシュワ冷たいラムネがセットでやってきたのは嬉しかった。その気持が伝わったのか、んじゃあ失礼しまーす、と軽やかな声色が追いかけてくる。俺はもっとこの人と話したかった。
待合の長椅子に並んで座る。何から話そう。いつからライフセーバーやってるのか、地元の人なのか…。
はい、と眼下に差し出されたライトブルーの飲み口に、俺は停止した。
「あ、すまん。自分で開けたかった?」
「いや、ありがとうございます! 頂きます」
燕青さんが自分の分を、プシュ、と小気味いい音を立てて開けたのを見届けてから、俺は自分の瓶に口をつける。甘い冷たさに口の中が洗われる。喉越しの心地よさに押され、一気に半分ほどを飲み干した。
「はー。懐かしい味ですね」
子供の頃以来だ。燕青さんは、そうだなー、と言いながらにこにこと俺を見ている。まるでラムネ一本で喜ぶ子供を眺める親戚の叔父さんのような見守り方だ。
「燕青さんは飲まないんですか」
「はっは、すまーん。見られたら飲みづらいよな…良い顔するからついね」
燕青さんはそう言って自分の瓶に口をつけた。多分、彼にとってラムネは珍しくないものなんだろう。なんなら先週も貰って飲んだくらいかも。物を貰うことが多そうな人だから……と俺が整った鼻筋と緑色の目を眺めていると。
「慣れた?」
ん?
「こっちは」
彼の横顔を見てぼんやりしていた俺は、自分のことを尋ねられているのだと気付いた。そういえば、もう半年だ。この海辺の歯科診療所を引き継いで半年。来たばかりの頃は、潮の匂いだ!とはしゃいだけど、いつの間にか何も感じなくなっていた。
「そうだな…。仕事は少し慣れましたね」
患者さんの顔は覚えたし、少しずつ信頼を築けている気がする。
でも。
「あんまり来てもらえませんね…」
「患者さんの数ってこと?田舎だし人少ないからな」
「数もあるんですけど、結構酷くなってからくる人が多くて」
よくここまで我慢して日常生活を送ってたな?とそのガッツを敬いたくなるくらい、虫歯や歯周病が酷くなってから来院する人が結構いる。ここに来る前、俺が研修でいたクリニックではそんな例はあまりなかったので正直戸惑っている。
「あー…歯医者に限らず医者嫌いの人は多いかもな。俺の近所のじいさん連中もそうだけど、具合悪そうにしてるから、医者行けば?って言ってもいかないいかない。時候の挨拶かなんかだと思ってる」
んで結局俺が連れてくけど…昔気質の人が多い漁師町だからかねぇ? と言いながら燕青さんが空になったラムネの瓶を置いた。
医者に行かないなら歯医者なんかもっと来ないだろうな…と悲しいかな、少し納得してしまう。早く来てくれれば自分の歯を残せたのにな、と無念に項垂れるのはこの町では仕方ないのだろうか。
「まーー…、こんな綺麗な海があったら診療所なんて行く気になりませんよね……。それはわかります」
俺はあえて自棄っぽい軽い調子で言った。燕青さんは下手なフォローを入れたりせず、胸中お察しするという顔で少し口角を持ち上げてから。
「…先生は?」
「はい?」
「あんた全然海に来ないだろ。気晴らしはどうしてんのかなって」
俺はたっぷり3秒くらい停止したと思う。気晴らし………。
「この町、海以外に娯楽ないしさ。飲みに行く方?」
飲み………。
俺が黙っていると、燕青さんは何かを悟ったように切れ長の目を光らせる。
「……あ、人に言いづらい遊び? なら深入りしたら悪いな」
「え」
「同性だから気にすることないけどなー?」
でも喋りたくないことは聞かないぜ、という親しげな微笑み。親密さの扉を軽妙にノックしてくるこの男子トークの誘いに心をくすぐられたが、残念ながら。
「男同士だから話せるような類の遊びはしてないです…」
…言うしかないのか、アレを。
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