行方が分からなくなった燕青に、確実に会える場所! どうして今まで気付かなかった? 君がそばに置いておきたい、離れたくないもの。臆さず君を見ていれば、簡単に気付けたことだった。
ここが外れなら万事休すだけど、俺は確信があった。壁一面で極彩色の神々や象が踊る、ヒンドゥー式寺院を見上げた。呼び鈴を鳴らすと、幸いにも彼はいた。海の家で見たラフなTシャツ姿とは違う…長袖を着た左肩を出し、オレンジの長い袈裟を着込んだ姿はまさしく異国の僧侶って感じだ。
「あの……燕青を探してまして」
俺を見下ろしたアシュヴァッターマンさんは「寺は迷子センターじゃねえ」と眉を吊り上げたものの、袈裟越しでもわかる筋骨隆々とした背を向け、俺を墓地へ案内してくれた。
「あいつが来るのは月一、二回くらいだ。最近もそれは変わらねぇ」
最近も、というアシュヴァッターマンさんの言葉を噛みしめる。
「……月命日に?」
「さあな。そこまでは知らねえよ」
知っていてもそんな立ち入ったこと近親者以外には話せないという態度だった。墓地の一角に佇むそのお墓は、黒い石造りの純日本式で、華僑の大商人の墓だとは傍目には分からない。日本文化を愛したという主人の嗜好に合わせたのか、恨みを持つ者に墓を荒らされないためか。
墓の手入れは行き届いていた。だが昨日今日で燕青が来たという様子ではなさそうだった。
「前回、燕青はいつ……」
腕を組んで俺の後ろに立っていたアシュヴァッターマンさんを振り返る。行方を消したと思っていた燕青が、確かにここに来ているという実感が俺の目をぱしぱしと光らせた。
「さあて……あいつも必ず俺に声かけていくワケじゃねえし、分からねえな。いちいち覚えてもいねえ」
……それもそうだろう。待とう、やみくもに。俺がお礼を言って頭を下げると、
「……金銀は火の中でこそ試される、ってな。テメェが運命を掴む者ならば結果はもうそこにあるんだろうよ」
アシュヴァッターマンさんはそう言って行ってしまった。
燕青のご主人様のお墓の前に立つ俺を照らす昼の太陽は、朝より温かさを増していたが、反対に待っている時間に比例して手はかじかんでいた。
(……待っている、かあ)
普通に考えたら今日会えない確率のほうが高い。約束もない。…燕青が俺に会いたいかも分からない。待っている、というよりも、勝手な希望を持って突っ立っていると言った方が正しいけど。
墓地に訪れる人は少なく、たまにお参りにくる人の姿形を目を細めて確認しては、また地面に目を落とした。冬の儚い太陽が徐々に落ち、辺りが暗く沈んでいく。午後5時、お墓参りの時間の終了。冷え切った胸で落胆と安堵を微かに感じながら、俺は腕時計から目を離す。出直そう、何度でも。診療があるから来れるのは週に一日だけど、いつか会える……彼は必ずここに来るから。
俺はかじかんだ手をコートに入れてのろのろと寺院を出る。いつまでも待つぞという強い気持ちと、透明な空虚。なんとなくそのまま帰る気になれなくて、俺は手持ち無沙汰に手足を動かし、寺院の斜め向かいにあった酒屋さんにふらりと入り込んだ。
『故人の方にお供えをした後は放置せず持ち帰りましょう』
レジの後ろに貼られた張り紙を見て、ここは場所柄お参りをする人がよく立ち寄るのだと気付く。ふと横を見れば、お酒の並んだ棚に燕青の家で見たことのあるカップ酒が置いてあった。将棋の会でおじいちゃん達が飲んでいたものだ。立ち尽くす俺に、レジに座っていた白髪交じりの短髪のおじさんが「なんかお探しかい?」と声をかけてくる。
「えっと……これ、いつも買ってる刺青の人います?」
「ああ。よく来る兄ちゃんね。知り合い?」
「ええまあ」
「いい子だよな。珍しいよ、今どきあんなマメに墓参りに来るのは……なんか浜の方で仕事してんだろ?」
相槌を打ちながら、思わず頬が緩む。俺以外の誰かの記憶に燕青が存在する。しっかりと輪郭を持って、あの温かい人柄を閉じ込めた形で。どうしてこんなに慰められるんだろう。
毎度どーも、というおじさんの声を背に、俺は店を出た。つい買ってしまったカップ酒。道の端に寄って蓋をあけて煽ると、酔うためのきついお酒って感じだ。燕青はお参りのたびにお供えして、持って帰っているのかな……そう思いながら、ふと後ろを見ると暗い海が水平線の向こうまで広がっている。墓地は、海を見下ろす高台にあった。夏の間、燕青は、この墓地に背中を預けて海を監視しているのだと気付く。義の文字を主人の墓に向けて。
――誰かが俺を見ている。
妙な直感に呼ばれて振り返ると、何かが飛び上がって街路樹の葉の茂みに隠れた気配。いやいや、木、高さ五メートルはあるよ?!という驚愕と、そんな人間離れした芸当ができるのは俺が知る限り一人しかいないという確信が胸を突く。
「燕青!」
俺が街路樹に向かって駆け出すと、なびくポニーテールが見えた。暗いけど間違いない。俺は走って追いかけるが、家々の塀や街路樹の上を跳ぶ燕青に対し、道路しか行けない俺はどんどん離されていく。
「なんっ、でっ…待って…!」
なんで、どうして逃げるのか。胸が苦しい。前みたいに笑いかけてくれないのか。
もう俺とは会いたくない――…?
燕青の姿を見失うと同時に、絶望に襲われる。もつれた俺の足は向かう先をなくし、それでも亡霊みたいに前に動いた。クラクションの音。道が斜めに交差した四差路。重い鉄の塊であるはずのトラックがふわりと、一時停止線を越えて俺のすぐ右後ろに現れた。ああ、事故の瞬間ってこうなんだ……頭がひどく冷静に認識する。空白の時間。衝撃を無防備に受け止めようとする体が、ぎゅっと折りたたまれた。
ガタガタと遠ざかっていくトラック。俺は、民家の塀の上にいた。腰を落として着地したらしい燕青に抱き上げられた状態で。
「えん…、…燕青……」
「……」
「冬服かわいい……」
「第一声がそれかい」
燕青は突っ込んで、はあと溜息をついた。
「車の方に一時停止線があっても見通しの悪い道路は気をつけねぇと」
「ごめんなさい」
「…いや、完全に俺が悪い。逃げてすまん」
俯く燕青に、目が勝手に腫れぼったく熱を持つ。密着した燕青は茶色いダウンジャケットを着ていた。胸から上は黒いマットな異素材のツートンカラー、顎先が埋まるくらい高めの襟と、可愛い箇所はいくつもあるが、何より初めて見る冬のちょっとモコモコした燕青はとてつもなく可愛かった。対照的に大人っぽい色のインナーとパンツは体付きが分かるシルエットで、上着の愛嬌に反しスタイルの良さが際立っている。通った鼻筋と端整な顔立ちに、俺の好きな人って格好良くて綺麗な人だと改めて惚れ惚れする。久しぶりに見る燕青は脚色なしでとにかく輝いて見えて、視界がぼやけてその輪郭が歪むのが狂おしいほどだ。
「あー! 悪かった。ごめんなぁ〜…」
燕青の指が俺の目の淵をぬぐう。ああ、俺また泣いたんだ……情けないなあ、もう、ごめん。でもそれよりも君に話したいことがあって、伝えたいことがあって……なのに、口から出たのは一言だけで。
「会いたかった…」
夜の暗がりのなかに、墓石が佇む。敷地の外から差し込む二つの街灯の弱い光が、整然とした静かな景観にわずかな明暗を作っていた。
「海の見える素敵な場所だね。燕青のご主人様のお墓」
「海見ると子供みたいに喜ぶ人だったからな……山育ちなもんでね」
民家の塀を下りた俺達は、燕青のご主人様のお墓へ戻った。門は閉められていなかったが、お墓参りの時間はもう終わっているから見つかったらアシュヴァッターマンさんに怒られてしまうかもしれない。足音を忍ばせ、場の静けさを穢さないよう声のトーンを落として話す。
「今日が月命日だったの?」
「うん……来たら先生がいて驚いた。なんでここが?」
思わず口元がほころぶ。東京という漠然とした情報しかなかった絶望的な状態から、過去に話してもらったことの点と点が繋がってここに辿り着けた。幸運だ、三十一日分の一の確率でタイミングが当たったことも。アシュヴァッターマンさんが金銀は火の中でこそ試される…と言ってくれたけど、こうなることが分かっていたのかな。本当に、奇跡だとか運命だとか、言ってもいいくらいだ。
「燕青がいなくなってから、色々考えて……反省の末に運良くたどり着いたって感じかな。すごいラッキーだね」
俺の笑顔と対象的に、燕青の表情は精彩を欠いていた。
「反省って……あんたが反省するようなことは何もないだろ。寒いなか一日突っ立ってさあ……風邪引いちまうよ」
「見てたの?」
燕青はばつが悪そうに、ジャケットの大きめの襟に顔の下半分を埋めた。
「…先生見かけて驚いて思わず隠れちまった。さっさと出ればよかったな。危険な目に合わせちまうし…」
俺もトラックの運転手さんに謝りたい。俺の不注意のせいで大変なことになるところだった。
「……こっちに戻ってこないの?」
燕青がこの町からいなくなって三ヶ月、もう君には他の生活があるのか。何かに躊躇うように、俺の問いかけに答えは返らない。急に鼻がツンとしてくる。
「……俺が、君を好きでいるから?」
「いいや、そうじゃないよ…」
そこからやっぱり言葉が消えてしまった。沈黙に耐えかね、俺は手を伸ばして燕青の拳に触れた。いつもあったかい記憶しか無かった手が、今日は冷たい。俺が長時間待っていたように、燕青も俺を見ていてくれたからだ。俺に会いたくないなら、俺が墓地を出た隙にお参りして帰ることもできたのに。
「燕青。もしよかったら、」
「ん」
「君がこっちに戻ってくる月命日だけでも、一緒にここでお参りさせてもらえないかな」
「……なんでぇ?」
燕青は注意深い目で、柔らかい口調で尋ねた。
「…一緒に大切にさせてもらえたら嬉しい。燕青の大切な人のこと」
おこがましいと分かりつつも、洞窟であの女の子と話して湧いた勇気でお願い。燕青の整った眉がうろたえる。
「先生……気持ちはありがたいが…アンタはんなことに付き合わなくていいよ」
厚手の上着に包まれた両腕が少し強く俺を抱きしめた。寒い思いをさせたお詫びだとか、俺の申し出を受け入れる訳じゃないけど気持ちへのとりあえずのお礼だとか、多分そういう……それ以上の意味を含まない抱擁。だけど俺をぐらっぐらに動揺させるものだ。俺はもう次に何を言うべきかすっかり分からなくなって、ひさびさに感じる君の温かさとか匂いとか体の厚みに占められてしまう。……でも、燕青がいつもこうやって大事な話を終わらせようとする人であることを、俺は知っている。言葉は饒舌なのに意外と不器用で、自分の魅力をよく理解している君の処世術。
君がそうやって誰かを煙に巻いて一人で背負おうとするものを、俺は。
「俺、ほんとは……燕青がご主人様のこと、忘れてくれたらいいのにって思ってた。賢い君は気づいてたよね」
燕青は黙っていた。
俺は燕青を、ご主人様との別離という過去のトラウマに苦しんでいる人だと、捉えようとしていた。
花火を見た夜に、俺は『君の過去の傷が癒えるまで友達としてそばにいたい』なんて言ったけど――それは結局、君が過去を忘れることを願う言葉だった。
悲しい思い出も、温かい思い出と全部ひと続きで一部分だけを都合よく忘れられるわけないのに。…きっと君はご主人様の命が失われた雨の日の記憶だって、薄れることを望まないのに。洞窟であの女の子から差し出された消しゴムを断ってから、俺はやっと自分の考えを客観視することができた。
「……君が待ち合わせを心苦しく感じるなら、たまたま墓地に散歩に来た人のふりでもするよ」
「なんだそれ」
抱擁を解いて、燕青がちょっと笑う。
「気ままなウォーキング・デッドかなあ」
「ゾンビィ? ここインド寺だぞ」
たしかに文化が喧嘩しそうだし、ふざけたことを言っていると僧侶の逆鱗に触れそう。約束も関係性も持たない虚ろな怪物になっても、やっと掴めたこの細い糸を手離したくない。燕青の眼差しが俺の意思を確かめるように輪郭をなぞる。
「……先生、言い訳含めてアンタに聞いてほしいことは色々あるけど」
「……」
「とりあえずだな。俺がいなくなったのは東京でライフセーバーの研修があったからで」
「え」
「で、言いづらいが ……色々あって今日東京戻んないといけない。すまん」
「え?」
「もう行かねえと、出ちまうんだ……こだま」
「ええ??」
払い戻し不可―――。
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