在庫なしの思い出記録用。かわいい夏のひざしょ表紙はゆねた様に頂きました!
20年7月に発行したマイ相では最新の長編既刊です。恋愛というよりブロマンス。右足を失って田舎の漁村に隠居した40歳の相澤と週末尋ねてくるマイクの日常を描きました。(本誌で相澤が右足を失う前に書いたものなので、状況設定は全然違います) 少し原作寄りのいきいきした自然なふたりを書けたかなあと 好きと言ってくださった方々、ありがとうございました😊
「……俺の友達の話、聞いてくれる?」
ラジオ番組が終わった後の、土曜早朝の居酒屋。マイクさんが珍しくテーブルに頭を突っ伏し泥酔している。はい、何ですか、と応じると少しほっとした雰囲気。やっとだ。この人の番組のADをやって長いので、仕事終わりに『飲みに行かない?』と誘われた時から何か悩んでいるのは分かった。誘っておいてジョッキを空けてばかりでいつまでも本題を始めないので、正直いい加減眠くなってきたところだった。だってオールナイトの番組明けだ。
「付き合いの長いの友達でさ…俺と一緒の仕事してたけど田舎に引っ越すの、来週」
「田舎ですか」
「人口千五百人くらいの海沿いの小さい町な。漁村って言った方がいいかもしんない、そういうシブい場所。ここから高速乗って三時間くらい」
名前を聞けば俺も隠れたダイバースポットとして雑誌で見たことがある。バカンス地みたいに白い砂浜に透明度の高い青い海。だけど本当に海しかなく、交通の便がとても悪いので観光地としてはあまり栄えていないらしい。俺も行ったことがない。ディレクターに無茶ぶりされる毎日からすれば海を眺めながらの隠居暮らしに憧れはするけど、真面目にそこに住みたいかと言われれば微妙だ。
「向こうにお友達でも?」
マイクさんはテーブルに張り付いたまま頭を横に振る。
「あいつの友達は俺だけ…」
その声が寂しそうなので俺は眠かった目がちょっと覚めた。雨の中で震える捨て犬。そんな感じ。マイクさんにとっても友達はその人だけなのだろうか。俺の知る限りマイクさんの交友関係は広いからそんなことはないはずだが。でも、この人がこんなに落ち込んだところを見たことがない。一人で何をしに行ったんですか、と尋ねると、また金髪の穂先が横に振れた。
「それがさっぱりわかんねぇのよ……『釣りでもして気ままに暮らす』とは言ってたが」
「釣りがお好きなんですね」
「いや、全然。俺が知ってる限り年に1、2回オフに釣り堀行って糸垂らしてるくらいだった。糸垂らしてるだけで釣る気もねぇ…魚より猫が好きな奴だし」
「うーん。その方は最近何かにショックを受けたり絶望したりされましたか?」
マイクさんは俺の問いかけにしばらく黙ってから、…あるかもしれない、と呟いた。詳しく話すつもりはないらしい。
「もしそうなら傷を癒やす心の旅なのかもしれませんね。涅槃寂静の境地を目指して…そっとしておくのがいいと思いますよ」
マイクさんは顔を上げると残り僅かだったビールジョッキを煽る。
「お前の説法を久々に聞いたわ…」
ADになる前実家の寺で住職をやっていたので悩み事相談は普通の人よりたくさん受けてきた。だから尤もらしいことを言うのは得意だし、俺の答えにマイクさんが全然納得していないというのも手に取るように分かる。気を抜いている時のこの人は感情が表に出やすい。結構な著名人なのに業界ズレせずいつまでも高校生みたいな素直さがある人。
マイクさんのそんな人柄が好きだ。だからこのまま彼の気が済むまで延々と付き合ってあげたい気持ちはあるが、まあそれは気持ちだけで今日はこの間知り合った女子大生とデートだしそろそろ一旦帰って寝たい。
「…分かった、もうこれ飲んだら帰る」
「さっきもそう言ってましたよ」
マイクさんは顔に感情が出やすいが、人の感情も察してくれる人だ。ドロボーくん冷たい、と俺のあだ名を呼んでぼやきながら、ジョッキの残りを飲み干す。
それにしても目付きが怪しい。これは相当酔っているな。この人は今日も学校で授業あるんじゃなかったか、と心配になる。
「このあと仕事ッスよね…大丈夫なんですか?」
「あとで吐くから大丈夫」
大丈夫じゃないですけどね、それ。俺は心の中で突っ込みながら、他に客がいないため厨房に籠もってしまったホールスタッフの代わりに店内に置いてあった水差しを拝借して項垂れたトサカ頭の前にお冷やを置いた。マイクさんはそれを煽ると、ぽつりと呟く。
「一番イヤなのはさぁ、ダチの船出を心から喜べない自分なんだよな…」
どこか覚束ない手つきが長財布を探り、…ごめんお会計して、おつりは要らない、と紙幣を差し出した。
「気を遣うなよ。見舞いは手ぶらでいい」
そう言いながら相澤は病室のベッドの上で書店の薄い紙袋を受け取った。中身は猫の写真集だ。
「遣ってない、喜ばせたかっただけ」
「…悪いな」
相澤は礼を言うと、紙袋から写真集を出しベッドの上で捲り始めた。ひざしはその様子をしばらく黙って眺めてから、口を開く。
「…辞めんの?」
「ん。ああ」
雄英の教師を辞める、と昨日相澤から電話があったと根津から聞いた。片足を失ったことでヒーローを引退することは術後すぐ決め、教師を辞めることは悩んだ末に昨日決めたのだろう。根津に伝えるよりも早く腐れ縁の自分に相談しなかったことにひざしは内心怒っていた。不満だ、俺は拗ねてるぞ、と分かりやすく顔に書いてあるその様に相澤は、ふ、と笑う。
「悪かったな。相談したら止めるだろ」
「そりゃあな。けど、お前が人の言うこと聞かない奴なのもよく分かってる」
ひざしは病室の天井に向かってふぅと溜息をひとつ吐くと、相澤に向き直った。
「お前ほど優秀な教師もいないと思うぜ?」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、」
「ヴォイスヒーローの声遮んなって。ビルボードに出てないだけでお前のヴィラン捕獲数は現役トップクラスだ。しかもむやみに傷つけず、周囲に被害を広げずの原則きっちり守ってだぜ?プロなら皆それがどんなに難しいか分かってる、派手に敵ブッ飛ばすだけじゃヒーローは勤まらねぇ!お前は浮き足立つキッズ達にその背中でヒーローの有り様を教えられる教師として最高の男なんだぜ?」
「ほう」
「緑谷、爆豪、轟…お前の元を巣立っていった生徒達は今やビルボードの常連!お前が問題児達をスパルタで叩き直し、時に甘く優しく…優し過ぎる時も多いに、おお~~~いに!あるが、とにかくその指導力は誰が見ても明らかだ」
なんかトゲがあるな、と相澤は小さく突っ込んだが、ひざしは話を続ける。
「ヒーローになりたいっていう奴はさあ、俺含め目立ちたい奴ばっかだろ。生徒達はお前みたいな陰気なアングラヒーローと接することでヒーローの神髄がなんたるかを知るわけよ。お前ってヒーローの中のヒーローなんだぜ?そこ自覚してる?アンダスタン?」
「陰気で悪かったな」
相澤が少し笑ったのでひざしもつられて笑った。いつも職員室で隣り合って話している時のような、くつろいだ温かい空気が流れていた。
「お前がそう言ってくれるのは嬉しいが、雄英の教師は現役のプロヒーローが基本だ」
「オールマイトさんだって引退したけどいるじゃん」
「あの人は特別だ。雄英が現役ヒーローを教員として採用するのは現場、時代に合った教育をするためだ。引退した俺が頑張ったところでリアルな現場感覚とはズレてくるし、年々そのズレは大きくなる。後進も育ってるし、他のプロが教えた方がいいよ」
自分は特例になるつもりはない。そう伝える相澤のよどみのない口調はまるで全ての文句を考えてあったかのようだった。
「…エクトプラズムだって両足義足だけど現役続けてるし、教師やってる」
「あの人の義足は膝から下だ。運動能力の低下はほぼない」
右足を股関節から切断した自分とは違う、と相澤は暗に言った。尚且つ死柄木弔との戦いで体にいくつか後遺症が残っている。それを騙し騙し現役を続けていたことも当然ひざしは知っていた。
ひざしは大きく溜息を吐くと、手の中にあったコーラを飲み干した。この生ぬるい甘いだけの炭酸に、少しでもアルコールが入っていればよかったのにな、と何となく思った。
「…俺だって続けられるなら続けたいと思ったよ。山田」
イレイザーヘッド、そして教員としての相澤消太はいつもひざしのことをマイク、と呼んだ。高校時代と同じように本名で呼んだのは相澤にとっての区切りを示す意味だろう。ヒーロー兼教員としての自分の区切り、終わり。同時に、ささくれたひざしの心に寄り添う意図も感じた。寄り添う、だが迎合することはない。温かいのに有無を言わせない声色。
ひざしの鼻の奥がツンと痛んだが、無視して唇を尖らせる。
「…自分の席の隣が空席になんのも、違う奴が座るのもヤだぜ、俺は」
拗ねた口調に、相澤ははっと笑いを漏らす。
「子どもみたいなこと言うな」
「言うよ。こっからは俺のワガママ!ガキが喚いてると思って聞いてくれ。あー疲れた、って横向いたら隣でもっと難しい顔してるお前がいてほしいし、残業したらさっさと帰りたがるお前捕まえて飲みにいきたいし…教師やってるお前が好きだ」
「……感情に訴えてくるなよ」
白い布団カバーの上に相澤の視線が落ちる。ひざしの心臓がどくんと音を立てる。翻意を引き出せるかもしれない、わずかな期待が沸いた。だが再びこちらに向けられた双眼に言葉を失った。うちに秘めた感情を砕いたようにその端がちらちらと光っていたので。
「…お前の気持ちは嬉しいし俺も同感だよ。だが教師は退職する。すまないな」
ああ。ゲームオーバー。…ゲームオーバーだ。
脳裏によぎった言葉に逆らう術を持たず、ひざしは項垂れた。
すまないな、なんて言うな。感情がグチャグチャでこれ以上何も言えなくなる。自分の方がつらいのに、そんな気遣うような目で俺を映すな。お前が本当に心残りに思ってるの、俺だって分かってるよ。
ひざしの中で無数の感情とそれを表す言葉が噴き上げていた。だが口から出た言葉は「…OK」の一言。この男の決断に、追従するしかない。はじめから分かっていたことだった。
ふー、と大きな溜息を吐くと、ひざしは背を向けた。
「コンビニで飲み物買ってくる。お前もなんかいるだろ?珈琲?」
「水でいい」
頷いてひざしはベッドから遠ざかる。頭の中では、戻って来たら今度は何の話題を振ろう、と考えていた。別の話題をして和んだら、もしかしたらもう一度話を振るチャンスがあるだろうか――…心の中でわだかまる未練がそう囁いていたが、病室のドアを開きかけたところで呼び止められる。
「やまだ、」
優しい声だった。
…ああ、これはだめだ。
ひざしの目頭が熱くなり視界が歪んだ。
「ありがとう」
『ちょうど俺もそろそろ寮を出ようと思ってたトコで』
『お前がよければウチで一緒に住まない?』
『鼓膜がビリビリいうくらい賑やかで楽しい毎日を約束するぜ』
退院の日、そう話した山田ひざしの表情を相澤は思い出す。明るい太陽のような笑顔。まるで自分の名前からその使命を背負い込んだように、いつも陰った人の心を照らそうとする。温かく、優しい男。
相澤の引っ越しの荷物は少なかった。距離が遠いだけで搬出搬入の手間が少なかったため、引っ越し業者は2トントラックで男性スタッフが一人やってきただけ。知り合いの先輩ヒーローがサイドビジネスでやっている業者のためか、本来なら禁止されている客である相澤の助手席への乗車を特別料金で認めてくれたのは幸運だった。
トラックに揺られながら、『日曜だったら俺が手伝ったのに。お前のピクニックに行く位の荷物は俺の車でも十分積めるしさ…』という拗ねたひざしの口調を思い出す。退職した相澤にはもう土日も平日もない。引っ越しを日曜にすることもできたが、そうしなかったのはひざしからの同居の提案を断った後ろめたさが少し。独り隠居をする以上、旅立ちも独りであった方がいいだろうという気持ちもあった。
高速道路を降り、うねる山道を進み深い山を二つ越えるとようやく海が見えてくる。村の始まりを示す看板が現れ、そこに描かれた色褪せた魚が笑顔を見せ、すぐに遠ざかっていく。片側一車線の海沿いの道に入ると旅館や魚介料理の店の所在を示す看板がいくつか現れた。だがその数はすべて合わせても両手で足りるほどで、観光地と言うには賑わいの灯はか細く儚い。
「そこを左ですね」
ナビを見ていた相澤の声で、トラックは海沿いの道路からさらに海側へ左へ折れる。誰も手を入れないが為に伸びてしまったであろう草木がまばらな林を作り、道路に涼やかな陰を落としていた。だがその区間も短い。低速で注意深く運転していた若い引っ越し屋の男は、開けた光景に、
「あぁこれは…2トントラックでよかったッス…」
と呟いた。大きなトラックでは踏み込むのに躊躇する、海に張りだした崖のような地形。その上に相澤の新居があった。
常に潮風に晒される壁は錆びやすい素材ではなく板張りで、板による格子模様の壁は、たとえば漆などを塗れば京都の料亭宿風に格調高いものになるのかもしれない。だが、今は経年劣化で塗装は落ち、枯れ枝色に褪せている。幾度もの潮風、雨風になぶられた末のその姿を人によってはみすぼらしいと評するのだろうが、その自然な、どこかぼやぼやと気の抜けた風合いを相澤は好ましく思った。そのうち必要と感じれば塗り直せば良い、でも当面はこれでいい、と。
家の前にはポロシャツの一人の女性が立っていた。小柄だが、肉付きがよく半袖から覗く少し焼けた肌は健康そのものといった様子の。電話で話した印象よりも若く、相澤が停車を始めた2トントラックの窓から彼女を見ると白い歯が覗いた。
「相澤さん、お待ちしてました!」
「どうも」
相澤がこの家を買い取る時にやりとりをした村役場の職員だ。本来役場で家の受領や転入手続きについての書類を交わさなければいけないが、相澤が義足だと知った彼女はわざわざここまで出向いてくれたのだった。
「わざわざ来て頂いてすみません」
「いえいえ、今日は暇でしたし。それにこの田舎に外の人が引っ越してくるのなんて何年ぶりなのかな…私が役場に入って初めてなんですよ。歓迎させてください!」
彼女がドアの鍵を開けると、引っ越し業者の男が搬入作業を始め段ボールを両手で抱えて中に入っていく。玄関に適当に積んで貰えればいいです、という相澤に、威勢良い返答が返った。
開け放たれたドアから玄関の先の様子が見える。鈍い光沢を帯びた焦げ茶のフローリングが広がる平屋建て。部屋を分割する壁はなく、手前にダイニングキッチンがあり、奥が居室スペースになっている。最奥は一面が窓になっており、そこから外に出れば崖下の海を見下ろすことができるだろう。
「お車は来週ですか?」
「そうですね、納車が間に合わなくて」
前の住人である老夫婦が介護施設に入るためこの家を出たのは半年前だそうだが、相澤と彼女が佇む家の前は膝の高さまで雑草が茂っていた。草の生の頑健さを示すような強い青臭さと土の匂いが大地から立ち上る。半袖の肌をまとわりつくような湿気が覆っていた。6月の始めだが、海に面し自然のまま荒立った草木に囲まれたこの家はもう真夏の足音がする。
「中に入って話しましょうか。暑い」
彼女を家の中に促し、相澤は自分も続こうとする。その寸前で、頭上の存在感に上を向く。屋根の半分を覆う大きな陰だ。
「しかし…すごいものですね」
相澤消太との再会の日は雨だった。
深夜ラジオと土曜授業の疲れをたっぷりの睡眠で回復した日曜の午後、ひざしは教えられた住所を頼りにナビに導かれ相澤宅へ辿り着いた。築四十年、最寄りの駅からは車で三十分。それが相澤の家だ。昼間にも関わらず雨雲に覆われた空は薄暗く、岬に佇む一軒の家はどこか不気味に見えた。
「……トトロにでもなるのか…?お前は…」
車を降り傘を手にしたひざしは、思わず呟いた。古い家の屋根半分を、威圧感を感じるほどにわっさりと葉を茂らせた大樹が覆っていた。
◇ ◇
「漁師を守る縁起のいい木なんだとよ。『龍の樹』と呼ばれているらしい」
相澤はコーヒーの入ったマグカップを二つテーブルに運びながらこともなげに答えた。一年中鬱蒼とした緑の葉を茂らせる椎の木の一種で、樹齢はおよそ五百年。地面から何本もの太い根がうねりを上げながら直径約十メートルの幹を造り上げている様は迫力があり、海に向かって身を傾け葉を伸ばす姿と相まって龍になぞらえられている。龍は水神であるため、海の安寧と漁の安全を祈願するシンボルとしてこの漁村でありがたがられているらしい。
突然田舎に隠居すると言い出した相澤に面食らったひざしだが、家に来れば理由が分かることを期待していた。だって、俺の同期は見た目は小汚いけど中身はまともなやつだし。そう思っていたが、次々と新たな疑問符が生み出されている。なんでこんな半分木に食われた家に?なんで義足なのにこんな不便な村に?なんのために?…前の生活を捨ててまで。
「…そんなに心配するな」
「え」
ひざしの心情を静かな両眼が見透かしていた。
「…俺がここに隠居した理由が分からんって顔してる。義足になったついでにのんびり田舎で暮らしてみたくなっただけだよ。都会は慌ただしいんでな」
「ふーん…そりゃあまぁそうかもしれねぇけど」
釈然としない思いだったが友人がそう言っている以上信じるしかなく、ひざしは言葉を探しながら部屋をぐるりと見回した。広さは四十平米ほどありそうだ。
「この広さなら念願の猫飼えるんじゃねえの。保護猫でも貰いに行くなら付き合うぜ?」
休日に猫カフェに通うのは相澤の唯一の趣味といっていいものだ。だが相澤は首を横に振る。
「猫は好きだが…独り身だし自分が世話しないと死んじまうかもしれない存在を手元に置くのはな。少し怖い」
「八十のオジーチャンかお前は?!」
もしお前が面倒みれなくなったら俺が貰ってやるから、と言っても首を縦に振ることはない。
「猫に俺のお守りでもさせようとしてんのか?野良猫をたまに構えればそれで十分だよ」
「OK…」
ひざしは諦め、ビニール袋からオードブルの盛り合わせを取り出す。どうせ相澤の家には何もないだろうと来る途中に買ったものだ。ノンアルコールビールの瓶を二本出し、相澤が好む肉じゃがや唐揚げの和総菜の個別パックも広げるとテーブルの上は賑やかになり、それはひざしの気持ちを少し明るくさせた。部屋の隅の段ボールを漁り栓抜きを持ってきた相澤が瓶を開け、汗をかいたボディを合わせる。キンと冷えた最高の温度はとうに過ぎていたが、温くはなかった。車で帰らなければいけない自分と違い相澤には普通のビールを選んでもよかったが、そこまで酒が好きではなく、飲み過ぎると記憶を無くす男なのでアルコール無しがちょうどよかった。
「そういや飯どうしてんの。まさか三食ウイダーじゃねえだろうな」
教員寮では食事が出たが、ここでは自炊しなければならない。だがひざしが見たところ玄関を入って右側のキッチンに調理器具はなくがらんとしていて使われている形跡はない。相澤は痛い腹を探られたように軽く頭を掻いた。
「どうするか考えてる。今はバスで駅の近くまで行って定食屋さんに入ったりコンビニで総菜買って帰ってきてるな」
バスで四十分かかる最寄り駅は干物を売る土産屋が二軒、定食屋や居酒屋が数軒ある。村唯一のコンビニも。ひざしも車で通ってきたのでその様子は知っている。中心地、というにはあまりにも寂しいが、この人口千五百人のこの村の中心であることは確かだった。
「…バスってどのくらいの間隔であんの?」
「一時間に一本。すぐそこにバス停がある」
相澤の口ぶりは、便利だろ、と言いたげだったが、ひざしはあまり共感できなかった。
「お前よくここに住むって決めたよ、ホント…」
「悪くないぞ。そこから糸を垂らせば釣りもできる」
相澤が指さす窓の向こうでは、曇天の中黒い海が揺れていた。
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